【人情噺・子別れ】夫婦の愛情を表現するのは本当に難しい【リアリティ】

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子別れ

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今回は落語の名作としてよく知られている「子別れ」について語らせてください。

別名「子は鎹(かすがい)」とも呼ばれています。

今までに何度か高座にあげました。

難しい話です。

本当の名作ですね。

こういうのを噺というのではないでしょうか。

古典落語の演目の中でも一際すぐれたものです。

初代春風亭柳枝の創作です。

四代目柳家小さんの手を経て磨かれました。

今では柳派に限らず、多くの噺家が演じます。

志ん生、圓生、小さん、志ん朝をはじめ、名人がみな自家薬籠中のものにしました。

親子、夫婦の愛情を表現するだけに、あまり若い人ではリアリティーが出ません。

それだけ難しいということが言えると思います。

泣かせすぎると、客は疲れてしまいます。

その兼ね合いがそれぞれの演者によって異なるところも興味を引く点なのではないでしょうか。

すべての噺を通して上演することは滅多にありません。

普通、上中下にわかれますが、上の部分を「強飯の女郎買い」と呼び、下を「子は鎹」と呼んでいます。

通常は中の後半部分と下を合わせて演じることが多いようです。

すべてを話すと1時間を軽く超えます。

ホール落語でも最後の親子の愛情に絡んだ「子は鎹」の部分を演ずることが多いです。

下げに出てくる「鎹」という建築資材そのものが、今日あまり使われなくなったので、つらい部分があります。

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無理に説明しない

鎹(かすがい)などといっても、今は誰も知りません。

説明すれば、なるほどそんなものかとなりますが、あまり詳しく語らないのが粋ですかね。

木と木をつなげるためのコの字型をした金属製のものです。

今では玄翁を金槌にしている噺家も見受けられます。

玄翁(げんのう)などといってもよくわからない人が多いのです。

時代はかわりました。

この噺をしていると、つい感情移入が強くなりすぎると感じることがあります。

その時はむしろ、抑え気味に進む方がうまくいくようです。

子供の亀吉をあまりにもこまっしゃくれた表現にすると、あどけなさがなくなります。

眉間の傷を父親の熊五郎に見とがめられるシーンでも、むしろ子供はそれが既にすんでしまった事件だという表現にした方が自然に感じられます。

小三治はそのようにしていました。

あくまでも子供はあどけなくやらなくてはなりません。

夫婦別れをした後でも、再婚するでもなく、女房のお徳はけなげに子供をいとおしみ育てています。

その心根が見えるところをどう表現するのか。

番頭が木場へ熊五郎を連れていく途中で、亀吉に出会うという設定も、あらかじめすべてわかっていて、連れ出したとする解釈もあります。

事実そのように演じている雲助の型もあります。

どちらがいいのかは、意見の分かれるところでしょう。

全くの偶然とは思えません。

隠居も番頭もあらかじめ、お徳という以前の女房の暮らしぶりを耳にして、巧みに仕組んだということも考えられます。

しかしそのことを、噺の中で臭わせる必要があるのかどうか。

ここはこの噺の根幹かもしれません。

いずれにせよ、名作です。

稽古をしていても、いいなとしみじみ思います。

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こういう噺を素人ながらやれるということの幸せを、日々かみしめています。

今日はここまで。じゃあね。ばいばい。