美空ひばり
みなさん、こんにちは。
ブロガーのすい喬です。
歌手の美空ひばりを御存知ですか。
時々テレビで往年の回顧番組をやってますね。
やっぱりうまい。
ジャズのナンバーもなかなかのものです。
もちろん、演歌もね。
最初にこの芸名を聞いた人はぎょっとしました。
わずか10才たらずの子供の頃から歌っていたのです。
おかしな声で大人の歌をうたったりすれば、いいかげんウンザリさせられた人もいました。
サトーハチローのように、真っ向から否定する人もいたのです。
「悲しき口笛」「港町13番地」。

1度ぐらいは聴いたことがあるでしょ。
どれも子供の歌じゃない。
最初の頃のはどう考えても背伸びしすぎてます。
しかし大衆はその波に乗ったんですね。
日本は戦争に負けたのです。
その暗い気分をひっくりかえすもの。
価値の逆転には、美空ひばりがピッタリでした。
「右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチューインガム」という歌詞が戦争に飽きた人々の心に共鳴したのです。
しかし嫉妬もまたこの人の周囲には多かったね。
ショーの最中に、同い年の女性から塩酸をかけられたりもしました。
家族運
彼女は家族運に恵まれませんでした。
弟は暴力団の組織にも出入りしました。
母親がいなかったら、どうなっていたか。
まさに一卵性親子の誕生です。
後に小林幸子は同じレコード会社からデビューしました。
すぐに第2のひばりと言われたのです。
しかしひばりの母親の一言で以後の活動ができなくなりました。
「この会社にもう美空ひばりはいらないのね」
上層部は青くなって、すぐに小林の宣伝活動をやめたと言います。
それから小林幸子の長い下積み生活が始まったと言われているのです。
芸能の世界は内と外とのギャップが激しすぎます。
ひばりの歌はいいが人間は好きじゃないという人も多いです。
とにかくアクの強い歌手です。
芸能の世界のこと以外は何も知らない人といってもいいでしょう。
山口組組長との付き合いも彼女にとってはごく当たり前のことでした。
河原者という表現がこれほどぴったりくる人はいません。
明らかにこちら側の人間ではなかったのです。

最後に歌った、「川の流れのように」は彼女にとって幸運なうたでした。
これを歌わないで亡くなったら、随分違う印象になっていたと思います。
「愛燦々」もそうです。
小椋佳のものともまた味わいが違います。
この2曲がひばりを救いました。
なぜかこの歌を聴きたくなる時があります。
もう彼岸に旅立ってから30年以上の時が過ぎました。
月日のたつのは本当に早いですね。
今日はここまで。
じゃあね、バイバイ。