最強の武器
みなさん、こんにちは。
ブロガーのすい喬です
言葉は思考するための武器です。
それも最強のアイテムです。
日々鍛えないと、すぐにパワーを失います。
生きていますからね。
美しくもなるし、醜くもなる。
自分にとっての鏡みたいなもんです。
すぐれた思考の背後には、論理的な言語能力が必ず存在するのです。
と同時に感受性も言葉によって鍛えられます。
1度表現したことがらは新たな認識となって、自分に戻ってきます。
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だからこそ、書くという行為は貴重な経験でもあるわけです。
実際文章を書いてみて、自分はこんなことを考えていたのかと愕然とすることもあります。
しかしそれが新しい体験そのものなのです。
かつて日本人はたくさんの言葉を持っていました。
あるいはそれを鍛えるための場を社会の中に用意していました。
不見識な表現は大人達の世代によって常にチェックされていたのです。
漢文や古文の知識、あるいは和歌なども教養がそれらを背後から支えていました。
ちょっとした言葉の端々にそうした表現が見られたものです。
あるいは故事成語などを知らないと、会話の中に入っていけませんでした。
文化祭で
ぼくが中学生の時のことです。
とある高校の文化祭へ遊びに行ったことがありました。
その時、なにかの拍子でそこにあった障子を少し破いてしまったのです。
すると近くにいた高校生が突然こんなことを言いました。
なんだ、この愚昧の徒が。
何を相手が言っているのかわかりませんでしたね。
その時は「ぐまいのと」という言葉だけが残りました。
あとで家に帰って辞書をひいてみたのです。
そうしたら「愚か者」とありました。
なるほど、いたずらして障子を破くような愚か者といって叱られたのだということがわかったのです。
今の高校生でこんな言葉を知っている人はいないでしょうね。
それだけかつての若者はすごかったのです。
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ひるがえって現代はどうでしょうか。
男言葉と女言葉の垣根がなくなりました。
むしろ女性が男性的な話し方を好んでする傾向すらあります。
ジェンダーフリーの思想がそこにはあるのかもしれません。
合理性を好む現代の傾向がこれに拍車をかけているのでしょうか。
英語を代表とする西洋の言語には男女別の表現はまずみられません。
しかし日本語にはそれが数多くあります。
戦前の映画などをたまに見ると、「よくってよ」などと女子学生が話しているシーンがでてきます。
なんだか奇妙な感じがしますね。。
これは善し悪しの問題ではありません。
時代と文化の差なのです。
言葉の美しさ
言葉の持つ美しさを知っているのと知らないのとでは、そこに大きな違いがあります。
古典の中に出てくる和歌に通じているだけで、同じ花を見ても感じ方は自ずと変わるでしょう。
あるいは漢文や詩も大切です。
そうした非日常的な言葉はぼく達を内側から活性化させ、鍛えてくれるのです。
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これはコミュニケーションを超えた、知性のレベルの話です。
ただ通じる言葉だけだったならば、なんと味気ない世の中になってしまうことでしょう。
詩句を知り、言葉の重みを知るだけで、人生は豊かになります。
そこには長い時間をかけて培われてきた日本人の感性が脈打っているからです。
その言葉を知っているだけで、古代の人々や中世の人たちと通奏低音を響かせ合うことができるのです。
やはり読書か
どうしたら言葉に強くなれるのか。
これは難しいテーマですね。
やはり読書でしょうか。
1年に1冊しか読まないのでは話になりません。
0冊ではもっと悲しいですね。
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今日も三島由紀夫の小説を読んでいました。
どうすればあの語彙に達することができるのか。
道ははるかに遠いのです。
せめて正確な言葉の使い方をしたいものです。
それがせいぜいというところかな。
今日はここまで。
じゃあまたね。