【古今亭右朝】幇間を演じたら絶品だった【口跡のいい生粋の江戸っ子】

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生粋の江戸っ子

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今日は好きだった噺家の話です。

最近、古今亭右朝の噺をよく聞いています。

口跡の良さは師匠志ん朝のDNAを受け継いでいます。

浅草橋の生まれ、生粋の江戸っ子です。

ネット上にはかなり彼の噺がアップされていますね。

聞いたことがありますか。

1948年生まれですから、存命ならば今年75才になるところです。

しかし亡くなるのがあまりにも早すぎました。

寄席文字の修行をしたりして、少し遠回りをした人です

1975年、古今亭志ん朝に入門し「志ん八」を名乗ります。

真打になったのは1988年のことでした。

その前年に行われた真打昇進試験では一波乱がありました。

芸を高く評価されていた古今亭志ん八が不合格となったのです。

席亭たちは結果に承服せず、落語協会に強く抗議。

協会側は仕方なく追試を行い、彼を合格させました。

これにより少しの間行われていた、真打試験は事実上価値がなくなり、同年を最後に試験制度そのものが廃止されたのです。

落語協会の真打としては100人目でした。

昭和最後の真打なのです。

師匠志ん朝も自分の弟子の中でとりわけ、噺のうまい右朝に期待を寄せていました。

それだけに、2001年4月、肺がんで彼を失った時の悲しみはいかばかりだったかと想像されます。

わずかに51才でした。

そのすぐ後、10月に師匠志ん朝も亡くなってしまったのです。

よほどのショックだったんでしょうね。

噺を聞いてると、とにかく心地よくなっちゃうのです。

口跡がいいといえば、それまでですが、とにかく落語をやるために生まれてきたような人でした。

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日大芸術学部

放送作家の高田文夫とは日本大学藝術学部の同期で落語研究会出身です。

部長と副部長の関係であったとか。

あんまり右朝の落語が見事だったので、高田は噺家になるのを諦めたと言われています。

この二人の対談がネット上にありますので、是非聴いてみてください。

互いに互いを認め合っていたということが、実によくわかります。

右朝は自分の性格について、落語のような一人芸しかできないと述懐しています。

他人と息をあわせて、芸をするということができないのです。

全ての賞賛も非難も自分一人で引き受けるという形に最後までこだわったようです。

受賞歴もみごとなものです。

国立演芸場 花形若手演芸会新人賞 銀賞、 NHK新人落語コンクール 最優秀賞
にっかん飛切落語会 努力賞、にっかん飛切落語会 若手落語家奨励賞
国立演芸場 花形若手演芸会新人賞 金賞、にっかん飛切落語会 若手落語家奨励賞
国立演芸場 花形演芸会 金賞、国立演芸場 花形演芸大賞 大賞などなど。

志ん朝は自分の名前をこの人に継いで欲しかったようです。

そういう話もあったとあちこちに書かれています。

告別式で高田文夫は弔辞を述べました。

卒業記念に何かやろうと、上野の本牧亭を借りて二人会をや った。

満員になってよかったな。

あのころきみは、高田は面白いから噺家になれ、おれは作家になるといってたけど、逆になっちまったな。

数年前に渋谷の東邦生命で日芸卒業何十周年記念かの二人会をやった。

あのころが一番面白かったなあ。

あっちで、いっぱい酒を飲んで下さい。

そのうち俺も行きますから。

右朝の芸域は実にひろいです。

幇間ものが特に好きだったようですが、それ以外にも師匠の持ちネタの他、亡くなった川柳川柳のガーコンまで演じています。

とにかく噺を覚えるのが早く、師匠の家で稽古した翌日には、もう仕上がっていたとか。

芸の神様は意地が悪いです。

師匠ともども、古今亭の芸をもっともっと聴かせてほしかったとしみじみ思います。

芸は一代。

厳しい現実です。

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今日はここまで。じゃあね。バイバイ。