【六代目円楽死去】この一門はこれからも茨の道をたどるしかないのか

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噺家の世界

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

落語の世界はいかにも暢気そうですけどね。

しかし何事も外から見てただけじゃわかりません。

内情は結構複雑なのです。

六代目三遊亭円楽が亡くなったのが先月の9月30日。

まもなく1か月です。

ここへきて、この一門の先行きがいろいろと噂になってますね。

なんといってもマスコミに売れていた顔がなくなっちゃたんですから。

奥の院には先代五代目円楽の総領弟子、鳳楽がいます。

しかし圧倒的に売れていたのは、円楽でしょう。

1枚看板に近い状態だったのです。

好楽はといえば、生え抜きの円楽一門ではありません。

元々は林家正蔵の弟子です。

師匠が亡くなり、先代の円楽が預かったのです。

だから直系じゃない。

ちょっと遠慮があるのです。

このあたりが外から見てると、よくわからないところです。

若手では王楽も人気がありますが、好楽の息子ですからね。

先代の円楽の弟子に親子ともどもなりました。

そういう意味では直系ではありますが、父親との関係を考えると、ちょっとというところもあります。

この話は1978年まで遡ります。

あれから46年。

一門の総帥、六代目円生と柳家小さんとの間でバトルがあったのです。

真打昇進問題がネックでした。

あんまり噺家が増えすぎて、昇進試験を試みた年もあったくらいです。

粗製乱造が嫌いだった円生は脱退して、新しい流派をつくろうとしました。

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宴のあと 

ホテルを借りて、記者会見をしたものの、その後すぐに頓挫。

立川談志が抜けたり、志ん朝が元の落語協会に戻ったりとてんやわんやでした。

結局、円生一門だけが長い流浪の旅に出たのです。

その流れの果てが、今の円楽一門だというワケです。

円生が急死し残された先代の円楽たちは、80年に大日本落語すみれ会、のちの五代目円楽一門会を設立しました。

六代目円楽は当時、落語芸術協会会長の桂歌丸と仲がよかったから、そのよしみでなんとか寄席に出られるようにと頼みました。

噺家は寄席を大切にします。

道場みたいなもんですからね。

芸人になるには独得の空気が必要なのです。

しかし芸協に加入している噺家からみれば、自分たちの出る高座の回数が減らされるのです。

それでも少しだけ枠を削って、円楽が加入することを了承しました。

親分の顔を立てたというところでしょうか。

一門全体での合流を申し出たものの、さすがにそれはと拒否されていたのです。

しかしこれから先、どうなるかは未知数です。

芸協は立川談幸の一門も現在預かっています。

さらに関西の噺家のために、高座を開放しているのです。

当然、元々の落語家たちは、その分、他で仕事を探してこなければなりません。

コロナで自粛が続いてきました。

台所は苦しいのです。

新宿末広亭のクラウドファンディングについてはニュースにもなりました。

それでなくても自分の出番がなくなる不安が、芸人にはつきまとうのではないでしょうか。

お客の立場と、芸人の立場は自ずと異なったものです。

円楽一門には円生の襲名問題も難題として残されています。

円楽が一時は手をあげようとしましたが、それもご和算になりました。

この一門の先行きは、さてどうなるのか。

今回はこの辺りまでですかね。

三遊亭円丈の『師匠、御乱心』をご一読ください。

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裏側が全部わかるよ。

じゃあね。

バイバイ。