【幸福論】人は幸せになるために生きているとはいうけれど【不条理】

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幸福論

みなさん、こんにちは。

ブロガーのすい喬です。

今回は幸せの話です。

誰だって不幸になんかなりたくないですよね。

人間はなんのために生まれ、日々を生きているのかという問いは、多くの人によってよく発せられるものです。

そのときの一つの答えに「幸せになるため」というのがあります。

しかしその幸せの中身を考え出すと、これはなかなかに難問だということにすぐ気づかされます。

とにかく人の数だけ、幸せがあるといった方がいいでしょう。

かつて何冊もの『幸福論』と呼ばれる本を読みました。

アランのものなどは大変有名な部類に入るのではないでしょうか。

フランスでも日本でもいちばんよく読まれています。

欲望,怖れ,悔恨などの情念からどうしたら自由になれるかが説かれているのです。

最近読んだのは宗教学者、ひろさちやの『幸福術』という本です。

その中で一番今の気分にぴったりとあうのは、「おいしくものを食べる」という章でした。

うまいものというのは世間にたくさんあります。

そのおいしいものを食べるために、ぼくたちは一生懸命働き、たくさんのお金を持って、一流の店に駆けつけるのかもしれません。

しかしそれが本当においしいものであるのかどうかということは、簡単には言えません。

心配ごとでもあれば、その食事が本当にうまいものになるかわかったものではないでしょう。

しかし「おいしくものを食べたい」ということであれば、それはちっとも難しいことではないと彼はいいます。

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仲良くみんなで

家族そろって仲良く食卓を囲めばいいんです。

親しい友人などと語り合いながら食事をすれば、さらにおいしくなります。

そのためにはいつも家族の絆に心を配らなければいけません。

気の置けない友人たちとのいい関係を保つのも大切でしょう。

どんな食材でもそこにいる人間たち相互のあたたかな雰囲気で、おいしいものになるわけです。

欧米でよく行われるホームパーティなどでも、料理は二の次です。

主役はあくまでも会話だと言われます。

まさにここにこそ、「おいしいもの」の秘密があるのではないでしょうか。

給料が倍になればさらに豊かになろうと働き続けるのが日本人。

その反対に給料が増えれば、半分しか働かないのがインド人だとよく言われます。

進歩が美徳であった時代はもう過ぎ去りつつあります。

豊かになれば幸せがくると信じて働いた日本人は、今大きな試練の前に立たされているのです。

中国の人たちも、豊かになるという目標に向かって全速力で駆け抜けようとしています。

しかしいつかそのことが、別の不幸を生み出す要因になりつつあるようにも見えます。

貧富の差も増大しているといいます。

気功集団の事件などもありましたね。

精神が不安定になると、必ず似たような組織が出てきます。

家族がばらばらになって一緒に食事をとれないという状況はやはり恐ろしいものです。

塾で夕飯を食べる子供。

残業や、単身赴任で家族と食卓を囲めない父親。

そこに本当の姿の幸福はありません。

日本人はバブル崩壊やその後に続く長期不況を経験してきました。

アメリカでのテロなど多くの事実を目の当たりにもしてきました。

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家族の意味

その中で唯一学んだことは、家族の大切さでしょう。

テレビドラマも浮ついた恋愛ものがある一方で、確実に視聴率を稼いでいるのは家族の絆とは何かというより根本的なテーマのものが主流です。

食べ物は副食、おしゃべりは主食という幸福観は軍国主義の対極にあるのではないでしょうか。

そう考えてみると、幸福は遠くにあるワケじゃないということがよくわかります。

しかしすぐ近くにあって、手で触れるのか。

それもなかなか難しいです。

じゃあ、どこにあるのでしょう。

ここが幸福論の1番難しいところです。

どこだと思いますか。

心の中

どこという場所はぼくにもわかりません。

しかし「少欲知足」という言葉がありますよね。

なんとなくわかる気がします。

お金だって、たくさん欲しい。

しかしあるところから先はもう記号になってしまいます。

銀行にいくら預金してあるからといって、それをあの世まで持ってはいけないのです。

むしろ家族争議の元になりかねません。

ほどほどのところが大切なんです。

楽しみは春の桜に秋の月、夫婦仲よく3度食う飯。

こんなところじゃないですかね。

じゃあ、またね。