老年本
みなさん、こんにちは。
今回は高橋源一郎の書いた老いに関しての本を読みましたので、その感想を書きます。
「老い」は喫緊のテーマです。
誰にでも訪れるテーマであるとはいえ、その時点にならなければ、自分の身に迫ってきません。
いつまでも対岸の火事のままなのです。
だからこそ、論じるのは難しいのかもしれません。
ここのところ、「老い」についての本はかなり読んでいるつもりです。
とはいえ、いつもは和田秀樹の本でお茶を濁している程度ですけど。
仕事はやめるな、運転免許は返納するな、とにかく肉を食べろといったようなごくわかりやすい論点のベストセラーはほぼすべて、読破しましたね。
和田氏のターゲットは70歳、80歳、90歳とどんどん上昇していきます。
編集者によれば、数字を入れたこの種のタイトルの本は従来売れなかったそうです。
その常識をひっくり返したのが、彼の本ですね。
先日は佐藤優の新書も2冊読みました。
日本の今の高齢者たちがいかに桃源郷に近い環境にいるかという、ユニークな本でした。最初に出したのがよほど売れたのか、わざわざ実践編まで続編として出版されました。
国債の買い方から、ネット大学、公共住宅への移転まで、手取り足取り、親切このうえありません。
それ以前によく読んでいたのは、吉本隆明の「老い」にまつわる本でした。
老人という人間の行動のパターンとか、考え方をわかりやすくインタビュー記事にまとめた本が面白かったです。
つい先日出た林真理子の『80代になるとたいていボケるか死ぬ』も正直な老人論でしたね。
100歳を超えて大往生をした、佐藤愛子の『90歳、なにがめでたい』よりもユーモア度がかなり低い分、内容は生々しかったです。
老いの言葉
今回読んだ高橋源一郎の本は、そうした一連のものとは明らかにステージが違います。
より哲学的に老いを見ていこうという覚悟が、あちこちに見て取れました。
それは彼自身が72歳をこえて、死に近づいているという感覚にとらわれているからでしょう。
おそらくその頃にならなければ、本当の意味で「死」が自らのものとして感じられないからなのです。
そういう意味で、いい本でした。
過去の文学者や評論家たちがどのように自己の死をみつめてきたのかというテーマを真面目に綴った本です。
けっして大上段にかぶってまとめた本ではありません。
登場するのは哲学者・鶴見俊輔、吉本隆明、有吉佐和子の描いた小説『恍惚の人』、最後の私小説家・耕治人、詩人・谷川俊太郎です。
ここにあげられた人と作品の名前にすぐ共感できる人は、読めばかなりの充実感が得られると思います。
すでに40年も前の作品だったり、作家だったりしますので、親近感がわかないという人も当然いるでしょうね。
高橋源一郎の世代の人にとっては吉本隆明はほぼ敬愛に値する評論家だったと思います。ベトナム戦争に反対し、反戦組織を束ねた鶴見俊輔に共感する人もいるはずです。
鶴見氏の『もうろく帖』を題材にした第一章の記述はかなり長いので、ここは気長に付き合う必要があります。
自分の老いを冷静に冷めた目で追いかけ続ける評論家の晩年には怖いものがあります。
1年間の記録がわずか数行しかない年もあります。
その間に友人が亡くなり、地球のあちこちで戦争が勃発しました。
そして終わらない。
少しずつ後退し、この世界から消えていくその日まで、彼は言葉を紡いだのです。
おそらく言葉が出なくなっても、彼は考えようとしたのでしょう。
偉い人の老い
面白かったのは吉本隆明の老いです。
漫画家の娘、ハルノ宵子さんが書いた『隆明だもの』をサンプルに取り上げています。
この本はぼくも読みました。
彼の娘には作家の吉本ばななさんもいますが、同居していたのは長女のハルノ宵子さんです。
吉本という人はある世代にとって「神」に近い存在だったといったらいいすぎでしょうか。
ぼく自身、一番好きなのは彼の初期詩編です。
非情にみずみずしく爽やかでピュアな詩ばかりです。
その後は一気に『共同幻想論』ですかね。
これは難解の極みでした。
それまで読んだことのない柳田国男の本を底本にしているだけに、そこから学び始める必要があったのです。
ノートにまとめながら、内容を整理していった記憶があります。
しかし結局はよくわからなかったです。
その吉本氏の老年のテイタラクは、なんとも表現の仕様がないです。
『隆明だもの』にも戯画化して書いてはありますが、実際はもっとひどいものだったようです。
玄関で転んだり、夜中に家の唐紙を破いてしまったり、着ているものはいつも薄汚れた下着だけだったとか。
知らない人が見たら、完全に虐待されてニグレクトにあっていると思われても不思議ではない状態だったそうです。
知り合いのパーティで挨拶を頼まれた時も、1時間近くも話が終わらずついにひきずりおろされそうになったという話も載っています。
あれだけ親鸞を研究したのにも関わらず、末期にはよく四国のお遍路に出かけたいと無理な願いを呟いたとか。
足腰もたたないのに、空海に浮気をしたのかと娘は書いています。
圧巻、耕治人
この作家の名前を知っている人はもうほとんどいないでしょうね。
私小説というジャンルそのものが死に絶えつつあります。
その名の通り、自分のことだけを書き綴る小説の手法です。
田山花袋の『布団』がその代表例です。
あとは志賀直哉の『暗夜行路』でしょうか。
近年では車谷長吉、西村賢太までくらいです。
個人的には車谷長吉が好きですね。
かれの作品が教科書に載るとはとても思えませんけど…。
耕治人の老年の傑作は自分のことと、痴呆化していく妻の様子を描いたものです。
最後の3部作がなかったら、彼の名前は全く残らなかったかもしれません。
老夫婦は80歳になります。
奥さんは鍋を次々と焦がし、最後には電気炊飯器をガス台に乗せて火をつけてしまいます。
あまりに危険なのでホームへ預けたものの、ついに夫の顔も忘れてしまいました。
訪ねていったとき、私があなたの夫だよというと、彼女は「そうかもしれない」と呟くだけだったのです。
これが代表作『そうかもしれない』のキーワードになっています。
子供のころのことは覚えていても、50年以上暮らした夫の顔は忘れてしまう。
現実の厳しさですね。
認知症の真実は、まだ多くの人に一般化されていなかった頃に、有吉佐和子が『恍惚の人』に書きました。
人はやがて老いる。
そして再び赤子のように先祖がえりをしていく。
その旅路を誰もが長い時間をかけてたどるのです。
詩人・谷川俊太郎の亡くなった顔をみたときの描写にもひきこまれました。
同じ詩人の伊藤比呂美さんと2人だけで、馬鹿話をして笑ったという余話も傑作でした。
最後に少しだけ、自分の弟の死を書いた高橋源一郎本人の気分を味わってみてください。だれにでもやってくる肉親の死を冷静に叙述しています。
一読をお勧めします。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
