【赤壁の戦い・三国志】劉備・孫権連合軍は総攻撃に転じ曹操軍を大破した

赤壁の戦い

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

以前勤めていた学校の国語科職員室には、横山光輝原作の『三国志』が全巻揃っていました。

用事のない時は、よく読んでいたものです。

手にとってページをめくり始めると、ついやめられなくなります。

その中でも「赤壁の戦い」のところは面白かったですね。

前半最大の山場といっても言い過ぎではありません。

「レッドクリフ」という映画をご存知ですか。

中国では2008年7月に公開され、『王妃の紋章』を抜いて中国国産映画の興収新記録となったのです。

日本でも2008年11月に一般公開されました。

「三国志」とはその名のとおり、魏呉蜀の三国が争ったところからついたものです。

三国時代をまとめた歴史書で、3世紀晋の陳寿が書いた正史です。

この時代に曹操、孫権、劉備らが争い合ったことはよく知られています。

三国時代というのは漢の末期、次々と英雄たちが現れた時代です。

その中でも特に3人の人物が活躍しました。

ところがそれだけではただの歴史書で終わってしまいます。

そこで14世紀頃、明の初めに羅貫中の手によって書かれたとされるのが、『三国志演義』なのです。

『三国志』では三国のうち、魏だけを正当な王朝として認めています。

しかし『三国志演義』は蜀に肩入れして書かれています。

関羽や張飛は並外れた怪力を持つ武将として描かれ、諸葛亮は人智の及ばない天才とされています。

赤壁の戦いでも不思議な術を使って大風を起こしました。

その半面で魏の曹操は漢の天下を盗んだ悪人として記されています。

このように『三国志演義』は歴史に根拠をおいてはいるものの、さらに読みやすく小説仕立てにした本なのです。

内容が実に面白いので、多くの人に受け入れられ、『水滸伝』などとならんで、明や清の時代において、もっとも広く読まれた書物となりました。

書き下し文

操権に書を遺(おく)りて曰はく、

「今水軍八十万の衆を治め、将軍と呉に会猟せん。」と。

権以つて群下に示す。

色を失はざるは莫し。

張昭之を迎へんと請ふ。

魯粛以つて不可と為し、権に勧めて周瑜を召さしむ。

瑜至りて曰はく、

「請ふ数万の精兵を得て、進んで夏口に往き、保んじて将軍の為に之を破らん。」と。

権刀を抜き前の奏案を斫(き)りて曰はく、

「諸将吏敢(あ)へて操を迎へんと言ふ者は、此の案と同じからん。」と。

遂に瑜を以つて三万人を督せしめ、備と力を併はせて操を逆へ、進んで赤壁に遇ふ。

瑜の部将黄蓋曰はく、

「操の軍方に船艦を連ね、首尾相接す。

焼きて走らすべきなり。」と。

乃ち蒙衝・闘艦十艘を取り、燥荻(そうてき)・枯柴を載せ、油を其の中に灌(そそ)ぎ、帷幔(いまん)に裹(つつ)み、上に旌旗を建つ。

予め走舸を備へ、其の尾に繋ぐ。

先づ書を以つて操に遺り、詐りて降らんと欲すと為す。

時に東南の風急なり。

蓋十艘を以つて最も前に著け、中江に帆を挙げ、余船次を以つて倶に進む。

操の軍皆指さして言ふ、

「蓋降る。」と。

去ること二里余り、同時に火を発す。

火烈しく風猛く、船の往くこと箭のごとし。

北船を焼き尽くし、烟焔(えんえん)天に漲る。

人馬溺焼し、死する者甚だ衆し。

瑜等軽鋭を率ゐて、雷鼓して大いに進む。

北軍大いに壊れ、操走げ還る。

現代語訳

曹操が孫権に書状を送って言うことには、

「いま私は八十万の水軍を治めているが、孫権将軍と呉で一戦交えたいと思っている。」と。

孫権は家臣にこれを示しました。

顔色を失わない者はいませんでした。

張昭は降伏して曹操の軍を迎え入れることを願いました。

魯粛はそれはよくないと考え、周瑜を呼ぶよう孫権に進言しました。

周瑜がやってきて言うことには、

「数万の精鋭を与えてくだされば、進んで夏口に行き、責任をもって孫権将軍のために曹操軍を破りましょう。」と。

孫権は刀を抜いて前にあった机を叩き切って言いました。

「将軍や官吏の中で、曹操を迎え入れようと言う者は、この机と同じようになるぞ。」と。

かくして周瑜に3万人の兵を率いさせて、劉備と力を合わせて曹操を迎撃し、兵を進めて赤壁で遭遇しました。

周瑜の部隊長の黄蓋が言うことには、

「曹操の軍は今まさに船艦を連結しており、船首と船尾が接しています。焼き討ちにして敗走させることができます。」と。

そこで蒙衝と闘艦という船、10艘を選んで、枯草や枯れた柴を積み込み、油をその中にそそぎこみ、幕で包んで上に旗を立てました。

あらかじめ足の速い船を準備して、その船尾に繋いでおいたのです。

まず親書を曹操に送り、偽って降伏したいと申し出ました。

ちょうどそのとき、東南の風が強く吹いていました。

黄蓋は船十隻を最前線につけて、長江の中ほどに帆を挙げ、その他の船は順に従って進みました。

曹操の軍の者は皆指をさして言いました。

「黄蓋が降伏したぞ。」と。

曹操軍との距離が二里ほどになった時、同時に火をつけたのです。

火の勢いは激しく風は強く、船が進む様子は矢のようでした。

曹操軍の船を焼きつくし、煙や炎は空いっぱいに広がりました。

人や馬は溺れたり焼けたりと、死者は大変な数になりました。

周瑜は軽装備の兵士を使い、太鼓を鳴らして進撃しました。

曹操の軍は大きく崩れ去り、曹操は急いで敗走するしかありませんでした。

曹操、孫権、劉備

中原の地を支配して優位に立っていた曹操は、天下統一を目指して南征を開始しました。

孫権は劉備と同盟し、曹操を迎え撃つこととなったのです。

赤壁とは現在の湖北省にある長江南岸の地のことを言います。

208年、ついに曹操と孫権、劉備連合軍の戦いが始まりました。

天下統一を目指して南下した曹操軍を、孫権、劉備の連合軍が迎え撃つことになったのです。

孫権と劉備の同盟を進めたのは、劉備の軍師として仕えていた諸葛亮(孔明)です。

孫権は孔明の策を受け入れて連合軍をつくることに合意します。

将軍周瑜が劉備軍に協力することとなりました。

南下してきた曹操の大軍は80万、それに対する劉備、孫権の連合軍はわずかに5万という劣勢でした。

長江中流の赤壁で双方の水軍は対峙します。

しかし水軍戦に不慣れな曹操軍は波風による船の転覆を抑えるため鉄鎖で、それぞれの船を繋いでいたのです。

結果的にこれが曹操軍の敗因となりました。

孫権軍の指揮官周瑜は、風が強まったのを見きわめ、部将の黄蓋を曹操軍のもとに送ります。

偽って投降するふりをして油を注いだ芝草を満載した10隻の曹操軍の船に体当たりさせました。

火はすぐに燃え広がり、水軍のみならず陸上の曹操陣営にまで炎がおよびます。

そこから孫権、劉備連合軍は総攻撃に転じ、曹操軍は北方に向けて敗走しました。

赤壁の戦いは、『三国志演義』のクライマックスです。

弱体だった曹操軍の水軍は長江での水上戦に誘い込まれて大敗した結果、曹操は南下を断念します

諸葛孔明の構想した「天下三分の計」がまさに実現したのです。

曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国が鼎立する三国時代の幕開けでした。

小説も面白いですね。

たくさんの作家が挑戦しています。

ぜひ、手にとってみてください。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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