落語のリズムは裏拍にあるという神聖な真実

essay

落語論

コラムニスト堀井憲一郎の『落語論』『落語の国からのぞいてみれば』の2冊を再読しました。
とくに『落語論』は大変興味ある内容のものです。
3部に分かれていて、本質論、技術論、観客論からなっています。
その中でも特に噺をする立場から書いた「技術論」の部分が出色でした。
彼曰く、落語は 音楽そのものだというのです。
あるいは歌といってもいいのかもしれません。
リズムとメロディにのって心地よく異次元へ連れていく演者が最も優れているというのです。
やや高めの声の方がお客を陽気な気分にさせるとか。

登場人物が2人だったら、その話を聞いている裏の人物の時は、一定のリズムで打ち返してあげるという冷静な操作が必要になります。
いつも第3者の視点を持っている必要があるのです。
さらに自分の芸が陽か陰かを知らなければなりません。
どうやっても自分のカラーを抜け出すことはできないからです。
それぞれの演者が持っている特性を最大限に生かすということでしか、噺の完成はありません。
結局、芸風はその人独自のものなんです。
リズムも俗にいう裏拍に支えられています。
隠居と八っつあんのやりとりも、裏拍のリズムをきちんととれる噺家は自然に演じられます。
しかしやってみると、これが実に難しい。

漫才との違い

漫才と落語の違いは相手の話に本気で対立してはいけないところにあります。
隠居が与太郎の話に本気でつっこむと、笑いが出なくなるのです。
つねにゆとりをもって流していくのがいいんでしょうね。
まさに音楽で言うところの裏拍そのものです。
ただの相鎚の場合も、リズムが常に必要になります。
1人1人の演者にはそれぞれ独自の間合いというものがあります。
お客の緊張をつかんだら離さないために、「間」が必要になりますよね。
ブレスと深い関わりがあるのです。
噺のうまいヘタは8割が生まれつきのものからくると断言した落語家もいました。
確実なのは、誰もがただ自分の穴を掘っているということだけです。
自分にあわない噺はどれか。
どの噺が自然に演じられるのか。
それを日々試しているわけです。
アマチュアだって、このあたりの事情は全く同じですね。

5代目柳家小さんの言葉の中に、了見がすべてだというのがあります。
その人の性格、気性、間、リズムなどは全部噺に出てくるというのです。
他人に教えられてできるものではありません。
自分で穴を掘って探すものなのです。
これが実に難しい。
全て自分で会得する以外に道はありません。

落語にはこんな人間でも生きていていいのだという安心感があります。
与太郎を演じた後は、不思議と神経がゆっくりして楽になります。
与太郎はいわば落伍者の代表です。
しかし彼の存在を認めてくれる仲間に支えられ、十分に落語の世界では生きていられるのです。

捨て耳の効用

落語の世界でよく使われる言葉に「捨て耳」というのがありますね。
面白い表現です。
この言葉はどこからきたものなのか。
柳家権太楼師匠の『大落語論』にも、師匠の柳家つばめが書いた『落語の世界』にも載っていました。
捨て耳というのは、人と話をしている時に神経を別のところへたえず持って行く行為をいうそうです。
噺家の前座修行は実につらい理不尽なことの連続です。
師匠方にお茶をいれたり、着物をたたむ。
その間に太鼓をたたいたり、座布団を返したり。
しかし言われたことをただやっているだけでは評価されません。
つねに意識を先へ先へと働かせていなければならないのです。
お囃子を終えたら、師匠の帰りの靴を出して、お茶を差し替えて。
ありとあらゆるところに神経を使わなくてはならないのです。
師匠方の靴も草履もみな似たようなものばかりです。
売れている師匠の靴は明らかに高そうで、いいものなのです。
それを瞬時に見抜く目も必要です。
あらゆることに心配りをすることが、芸人として生きていく上でもっとも大切なんです。そんなことがどうして必要なのか。
人の心の先を読むことで、芸の心が磨かれるとよく言います。
人間の心理の奥までわかっていなければ、誰も笑ってくれません。
こころに大きな空洞をつくる作業が、人を笑いの渦に巻き込みます。

厄介な芸

さらに楽屋内で仕事をしながら、先輩の落語を聞き続けることも大切です。
噺を覚え、独特の間を盗むのです。
捨て耳の効用、ここにありですかね。
力のある者だけが生き残るというのは、あらゆる場面において通用する鉄則なのではないでしょうか。
しかしいくら運をつかんでも、それを次に伸ばすことができるのかどうかは、またその人自身に負うというのも厳しい現実です。
捨て耳という行為はどの世界にも通用する生きるための方法論かも。
本当に落語ぐらい厄介な芸はありませんね。

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