みすぼらしくて美しいもの
みなさん、こんにちは。
今回はかつて行った授業を思い出しながら、文章を書きます。
梶井基次郎の代表作『檸檬』です。
ご存知でしょうか。
掌編というのにふさわしい短い作品です。
この小説には独特の言葉がいくつもちりばめられています。
そのなかの1つが「みすぼらしくて美しいもの」なのです。
授業をするたび、いつもこの表現にとらわれていました。
魅力的な表現ですね。
彼の心象風景がこの言葉に凝縮されているような気がします。
梶井基次郎は明治生まれの作家です。
1901年に生まれ、1932年に亡くなってしまいました。
わずか31年の生涯でした。
この作品がなければ、ほとんど知られないままだったかもしれません。
今も記憶の隅にあるのは、国語の教科書に収められていたからです。
肺炎で亡くなる人が多かった時代です。
梶井基次郎は作家というより、その背後に大きな空洞を抱えた詩人でした。
だからこそ、この短い小説が幾重にも解釈され、忘れられない作品になり得たのです。
もうひとつあげれば、『檸檬』の持つ背景にあるかもしれません。
この作品の舞台は京都です。
古い町屋が並んでいる風景を想像してください。
旧制三高の学生が放歌高吟しながら歩く姿を、京都の人びとはあたたかく見守りました。彼らはやがてこの国を大きく豊かにする将来の宝だったのです。 音楽配信を試す
現在の大学生とはそのおかれた位置が全く違います。
国を支えるエリート予備軍でした。
それだけに、自由で伸び伸びとした学生時代が保証されていたのです。
しかしだからといって、病魔は少しも容赦しません。
肺結核
微熱の続く身体は次第に神経を病んでいきました。
鋭い感受性をもっていればいるほど、詩人は苦しんだに違いないのです。
自分の命がすぐ死ととなりあわせに存在している自覚は強いものでした。
だからこそ、みすぼらしい自分に近い存在、それでいて美しくありたい自己に似たものを探すため、彼は京都の町をほっつき歩いたのです。
ぼくが授業でよく生徒に質問したのは「あなたにとってみすぼらしくて美しいもの」とは何かということでした。
参考にしたのは次の一節です。
何故だかその頃私は「みすぼらしくて美しいもの」に強くひきつけられたのを覚えている。
風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転してあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。(中略)
私自身を慰めるためには贅沢ということが必要であった。
二銭や三銭のもの、と言って贅沢なもの。
美しいもの、と言って無気力な私の触角にむしろ媚びて来るもの。
そう言ったものが自然私を慰めるのだ。
生活がまだ蝕むしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。
赤や黄のオードコロンやオードキニン。
洒落れた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。
煙管、小刀、石鹸、煙草。
私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。
そして結局一等いい鉛筆を一 本買うくらいの贅沢をするのだった。
この一節を読んでいると、この小説家の感性がいかに鋭いものであるかが、よくわかりますね。
雑貨を好む人は今もたくさんいます。
しかし仔細に観察してみると、その内実は全く違うものにみえます。
背景にある死の想念が彼にとっていかに重いものだったのかを理解しないままで、この小説を読むことはできません。
雨や風がむしばんでやがて土に帰ってしまうような趣きのある町が好きだったと彼は書いています。
その果てに梶井は何をみたのか。
それこそがこの小説のテーマなのです。
丸善の持つ意味
『檸檬』の中に出てくるもう1つの大切な風景が丸善書店です。
丸善という書店は現在もあります。
書物のほかに文具や雑貨も扱っています。
丸の内に本店をかまえ、日本中に点在しているのです。
梶井基次郎にとって、この書店はどういう意味を持っていたのか。
それも大きなポイントですね。
主人公が最後に訪れる丸善は、洋書や画集などを扱う近代的な書店でした。
作家が好んでいた場所だということがよくわかります。
そこには知の空間があったのです。
梶井基次郎は西洋の文学、美術、文化への関心を強く抱いていました。
飽くことのない学びへの姿勢を強めてくれる場所だったのです。
しかし憂鬱な主人公にとっては、次第に居心地の悪い場所になっていきます。
その理由の1つが体調の悪化です。
近代の呪縛
ところがそれ以上に苦しい精神の風景がありました。
それが京都という古い街並みと近代との対比です。
西洋の文化を学べば学ぶほど、自分の中で、乖離が進んでいきました。
都市の風景そのものが近代へ向かう中で、人間の精神も同じ方向に向かわざるを得なかったからです。
どこか足元がうそ寒くて仕方がない。
直感的に美意識を得られる寺町の果物屋の描写は見事ですね。
裸電球の下に色鮮やかな野菜や果物が並んでいます。
それを隣の建物の2階から眺めていると、実に穏やかな気持ちになれたのです。
まさに直接的な美意識の結晶でもいえるものでした。
しかしそれだけで気持ちが和むというわけにはいきません。
近代化の足跡は彼の周囲にも容赦なく押し寄せてきました。
その象徴的な場所が丸善そのものだったのです。
知的渇望は今のままで良しとはしてくれません。
もっと先へ行けとせかすのです。
それが文明であり、文化だというのであれば、その舟に乗らないではいられなかったのです。
それだけのものを抱きかかえられる自分を意識できる人でした。
苦しい自分をどこかで解放してやらないと、やがて自死に至る予感さえありました。
そこへ直線的に降りてきたものが、檸檬の色と形だったのです。
紡錘形の形と色。
その自然がなにもかもを崩し去るのではないか。
その後に訪れるであろう心の平安。
憂鬱も倦怠もすべてが粉々になると信じたかったのでしょう。
神経症の症状に似ているといえばわからないでもありません。
梶井基次郎はその感覚を文章にしました。
もう1度『檸檬』を読んでみてください。
青空文庫で読めます。
あなたにとって「みすぼらしくて美しいもの」とはなにか。
いちど考えてみませんか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
