はじめに「言葉」ありきという思考が服飾の世界を創り変える

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論理国語の世界

みなさん、こんにちは。
今回は高校2~3年で習う「論理国語」の教科書から、気になったエッセイを取り上げます。
数年前に教科書の改訂が行われ、高校の国語は大きく変化しました。
大学入試共通テストなどに見られるように、記憶中心ではなく、読解力をその場で試す問題が多くなったのです。
日本人は元々論理的な思考が苦手だと言われています。
日本語の曖昧な表現をみてもそれはよくわかりますね。
同じ民族が狭い島の中に長く生きてきたのです。
ある意味仕方のないことでもあります。
日本人は「阿吽の呼吸」などといって、目をみるだけで相手の述べたいことを「忖度」するという文化の中で生きてきました。
しかしグローバル化した現代においては、そんなことも言っていられません。
自己主張をきちんとしないのは、価値の低いこととされつつあるのです。

そこで登場したのが「論理国語」という科目です。
自らの考えを明快に順序立てて話し書くこと。
それが求められているのです。
「論理国語」と並行して「文学国語」という科目も生まれました。
しかし多くの高校のカリキュラムを見る限り、あまり重要視されていないようにもみえます。
授業時間数に上限があるので、選択科目に追いやられてしまう傾向が強いようです。
今回、新しい教科書が手に入りましたので、目についたエッセイを紹介させてもらいます。
ぼく自身にとっても遠い存在である服飾の世界を論じた堀畑裕之氏の文章です。
服飾デザイナーとして活躍する以前は哲学をかなり学んだとか。
そこからの発見が「言葉」との出会いでした。
「日本の美意識」とは何かという問題を考え続けた結果、言葉がそれを規定していると考えたようです。

服飾の世界

ある年の秋冬コレクションのテーマは、なかなか決まらなかった。
いや、正確には それは決まっていたが、的確に表す「言葉」が見つからなかった。
もともと表現したかったのは着古して、継ぎはぎした昔の農家のボロ、余った糸をつなぎ合わせて織った残滓織、古布を細く裂いてよこ糸にした裂き織り、小さな布をはぎ合わせて作った朝鮮半島ポジャギ(風呂敷)などに見られる「無作為の美しさ」だった。
特にボロは近年世界的に「BORO」と呼ばれて、美術コレクターの評価が高まっている。
また特に心の中にあったのは、染色家の志村ふくみさんが作った「切継」の着物だった。それは彼女が生涯をかけて織り、大切にしまっておいたさまざまな布の端切れを、コラージュのように切り継いで生み出した新しい作品であり、詩的な美しさをたたえた一領だった。(中略)
服の新作発表は半年ごとだから、タイムリミットがある。
布づくりはすでに先行している。
服のデザインも取りかかりつつある。
そろそろコンセプトを知らせる冊子を作らなければならない。

しかし12月の初めになっても、言葉は見つからなかった。
心ばかり焦るがなかなか決まらない。
急に北風が吹いて冬が訪れ、紅葉した木の葉が一斉に舞い散り始めた。
その日は早稲田大学で特別講義をすることになっていた。
西早稲田の駅を出て、急ぎ足で大学に向かって歩いていると、歩道の隅の落ち葉がふと目に留まった。
さまざまな色や形の落ち葉がコンクリートの壁際に寄せ集まり、美しい織物のように輝いていた。
私は吸い寄せられるようにその場に立ち尽くし、夢中で写真を撮った。
風が落ち葉を吹き寄せ、自然に集まったものだった。
他の通行人は この奇跡のような美しさに気づかず、コートの襟を立てて足早に歩き去っていく。
いつもなら私も通り過ぎてしまったかもしれない。
ふと「ふきよせ」という言葉が心に浮かんだ。
日本では紅葉だけでなく、舞い落ちて道やくぼみに吹き寄せられた落ち葉も愛でてきたそうだ。
そして様々な形の干菓子を寄せ集めたものを「ふきよせ」と呼んでお茶と一緒に出したり、たくさんのキノコや秋野菜などを一緒に入れた「ふきよせ」の鍋を作って季節の恵みを味わったりした。
今では忘れられているそんな素敵なもてなしを、かつて日本人は生活に取り入れて楽しんできたのだ。(中略)

本当の宝物は誰でも見えるところに落ちているから、むしろ見つけにくい。
そして誰にでも手に入れられるから、自分だけの所有にすることはできない。
「衣」「食」「住」の生活の3要素に今求められているのは、まさにその心の向かい方だと思う。
その心を導く水路が、「言葉」なのだ。

ことばをみつける

とても美しい文章ですね。
読んでいるだけで心があたたかくなります。
特にどのような布が美しいのかという根本的なテーマは、大変新鮮でした。
「裂き織り」は家人がしていますので、機織りの様子などはよく見ています。
それが1枚の布になり、身に着けられる衣服になるまでの工程は、気の遠くなるほどの時間を要します。
その見聞があったので、より実感がつかめたのかもしれません。
この一節では、「テーマ」そのものよりも、それを言い当てるまでの「言葉」を見つける過程が主題になっています。
ボロや裂き織り、ポジャギのようなものは、ある意味、偶然性が孕む確信に満ちています。
実際に織ってみないとどこまで表情が変化するのかも、わからない要素が多々あるのです。
エッセイの最後の部分にでてくる落葉の話は、いかにも創作作家の目だと感じました。
こうした感覚がなければ、新しいものは生み出せないでしょうね。
それを決定づけたのが、「吹き寄せられた落葉」です。
人工的に構成されたものではなく、風によって自然に集まった色や形が、織物のように見えたのでしょう。
そこに作者が求めていた「無作為の美」が突然、言葉になって結晶化しました。
「ふきよせ」という言葉はぼくも知っています。
しかし落葉をみた瞬間にそれが飛び出てくるかどうか。
研ぎ澄まされた感覚を磨き続けていないと、発見できないのではないでしょうか。
この文章のユニークさは「ふきよせ」という表現が単なるデザインテーマだけで終わっていないところです。
日本人の感性そのものへと繋がっているのです。
本来はそれぞれが独立したものを、季節や時間ごと受け止め、寄せ集めた状態にする。

それを美として味わうという美意識です。
異質なもののコラボレートでも呼べるかもしれません。
今はやりの言葉でいえば「多様性」でしょうか。
それは、ボロや裂き織りの思想とも深くつながっています。
「本当の宝物は誰でも見えるところに落ちている」という表現が新鮮ですね。
『星の王子様』の世界に通じる表現にもどこか似ています。
一番大切なものはそう簡単には目に見えないのかもしれません。
自由に感じる広い心がなけれぱ、たとえ目の前にあっても気づかないのです。
高価だから価値があるのではありません。

気づける心

全ては「気づける心」があるかどうかなのです。
それだけでで世界の見え方が変わります。
怖いですね。
その心を導く水路が、「言葉」なのだという表現に向かって、すべての文章が結晶しているようです。
しかし感受性を豊かにすることがいかに難しいか。
これは服飾の世界に限った話ではありません。
志村ふくみさんの「切継」の話も象徴的です。
過去に織った布の断片を捨てず、新しい作品へと生かし直していくという作業に心の豊かさが潜んでいます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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