漱石門下
内田百閒(1889~1971)は、日本近代文学の中でもきわめて特異な位置を占める作家です。百閒という名前は彼の俳号からきています。
地元の故郷岡山にある百間川(ひゃっけん)からとられました。
後に文字をかえて「百閒」としたのです。
それほど多くの読者を獲得している作家ではありません。
しかし根強いファンがいるのも事実なのです。
夏目漱石の門下生の一人として知られ、不可解で幻想的な小説や、諧謔に富んだ随筆を多数執筆しました。
『山東京伝』という短編の持つ不思議な魅力についてはかつて記事にしたことがあります個人的には『ノラや』『百鬼園随筆』『阿房列車』などをお勧めします。
読み始めると、この作家の持つ不可思議な世界の中に取り込まれてしまうはずです。
現実と非現実との境を漂うという感覚に近いでしょうか。
一種のトランス状態を体感できる作品が多いです。
高校時代、夏目漱石の『吾輩は猫である』を読み、その世界に深く入り込んだことは有名です。
第六高等学校に入学後、俳句を始め、句会をよく開きました。
芥川龍之介のエッセイに「内田百閒」という短文があります。
最初のところを少しご紹介しましょう。
内田百閒氏は夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。
文章に長じ、兼ねて志田流の琴に長ず。
内田百閒氏の作品は多少俳味を交へたれども、その夢幻的なる特色は人後に落つるものにあらず。
芥川の目にも、彼の世界が特異なものにうつったのでしょう。
世の中にすぐ受け入れられるものではないという判断も、同時にあったものと思われます。
知的ユーモア
百閒の世界を一言で表現するのは大変難しいです。
一言でいえば、随筆家としての軽妙さと、小説家としての幻想性が同居している点に大きな特徴があるといえます。
知的なユーモアの漂う文体には確かに漱石の影響が見られます。
しかし、作風が同じかといえば、大きな違いあります。
漱石より、百閒の世界はより私的で、不条理です。
それが時に心地よさを誘います。
特に短編小説においては、現実と幻想の境界がありません。
説明文にあたるものがあまり多くないのです。
むしろそうしたものを排した構成の作品が多いです。
読んでいるうちに、読者に不安や違和感を残す独自の文体といえます。
一言でいえば、余白の美学とでも呼べばいいのかもしれません。
感覚的な不気味さを内包しています。
今回、取り上げた『サラサーテの盤』という作品は、読んでいると、迷宮に誘われるような曖昧さを感じます。
しかしそれが少しも不愉快ではありません。
むしろ以前から待ち望んでいた世界なのかと思わされてしまいます。
そこに展開する出来事に、これといった必然性がないのです。
逆にいえば失敗したら、取り返しのつかない小説になります。
その境界線ぎりぎりのところを歩いている作品群だといえばいえるでしょう。
描かれるのは、マージナルマンの活躍する、不思議な世界ばかりです。
一方、彼の演じる随筆に登場するのは、猫、酒、借金といったごく日常的な私生活のアイテムばかりです。
『ノラや』では、失われた飼い猫への執着と悲しみが、軽妙な筆致の中にあふれるように出てきます。
小説の描写とは全く異なるので、戸惑いを覚えてしまうほどです。
サラサーテの盤
タイトルにあるサラサーテは名ヴァイオリニストであるパブロ・デ・サラサーテのことです彼の作曲した代表的な作品が「ツィゴイネルワイゼン」なのです。
聞けばすぐにあの曲かと思うに違いありません。
誰もが一度は耳にしたことがあるはずです。
実はサラサーテ自身による演奏が今も残っています。
SP盤と呼ばれる古いレコードです。
その後半の部分に、なぜか人の声が入っているのです。
この短編はそのレコードにまつわる話です。
主人公のもとに、最近亡くなったばかりの友人の妻が訪ねてきます。
死んだ夫が貸していた本を返してほしいというのです。
これが何度か続いた後、ついにサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』のレコードの返却を迫られるのです。
主人公は又貸ししていたそのレコードが戻ってきたので、彼女に渡します。
この話のクライマックスはこの直後にあります。
レコードを渡した主人公の妻がそれをかけると、サラサーテの声が聞こえ、彼女は突然声を上げて泣き出すのです。
その声は、サラサーテ自身のものです。
何を言っているかはよくわかりません。
伴奏のピアニストに話しかけたものと推測されています。
当時の技術が稚拙だったものと思われます。
しかしその声があるために、どこか不思議でちょっと怖い感じがします。
もちろん、論理的説明などつくはずもありません。
静かな日常
この女性は友人が後妻に迎えたある芸者さんでした。
幼子を残して愛妻に死なれ、生活が荒れていた頃、ふとしたことで同じ故郷の言葉を話すこの女性と知り合ったのです。
それが縁で再婚しました。
結婚生活は静かな日常の風景の中にありました。
心が十分に通いきれなかったのでしょう。
その後、しばらくして友人自身も亡くなってしまいます。
残されたのは彼女とまだ幼い娘だけでした。
夜になると死んだ夫の遺品を取りに来る女という設定が怖いですね。
最初は貸していた辞書や、書物だけだったので、生活の足しにするのだろうと思います。そして、ある晩、突然「ツィゴイネルワイゼン」を返してくれと言ってくるのです。
そのレコード盤にはただの骨董品ではない気配が帯びています。
主人公は次第にその盤に魅入られ、手放せなくなっていきます。
そのうちに現実と幻の境界が曖昧になり、不可解な出来事に巻き込まれていくのです。
不安と余韻が残るとすれば、因果関係がはっきりしないところからきていると考えられます。
現実のようでもあり、幻想なのかもしれません。
判断がつかないのです。
この曖昧さが百閒文学の特徴であり、静かな恐怖を醸し出しています。
全編にわたって流れている静かな死の予感が、複雑な味わいを感じさせます。
百閒の文章の特徴は簡素であることです。
説明しすぎないことと、感覚のズレを作ることが彼の文学の真骨頂なのです。
興味がありましたら、他の作品も読んでみてください。
短編が多いので、どれも短時間で読めます。
『蜻蛉玉』のような荒唐無稽な短編にも、つい引き込まれてしまいます。
ちなみにこの作品は1980年に鈴木清順監督によって映画化されました。
チャンスがあったらぜひご覧になってください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
