顔氏家訓
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は学ぶことの大切さを、漢文の文章から考えてみましょう。
『顔氏家訓』は南北朝時代から隋にかけての学者、彼は顔之推(がんしすい)の著書です。
身を立て家を治めることについて述べ、子孫を戒めた本です。
乱世を生き抜いてきた著者の体験に裏打ちされた見解が、具体的に述べられているのです。
6世紀末といえば、王朝の興亡が繰り返された中国六朝時代です。
彼は粱、北斉、北周、隋と4代の王朝に仕えました。
学問を家業とした名門貴族として生を全うしたのです。
子孫のために書き残したこの著書は、家族の在り方から子供の教育法、文章論、養生の方法にまで論が伸びています。
そのうえ、仕事に臨む姿勢、死をめぐる態度に至るまで、人生のあらゆる局面に役立つ知恵に満ちているのです。
特に第8巻は学問、読書に対する考えに彩られています。
多くの読者に共感をもって読まれてきました。
今回の内容は広く読書を行えば、一芸を身につけて一生自活することができるというものです。
人間、いざという時に役立つのは百万の富ではありません。
最も大切なのは読書の技だというのです。
それだけに書物を読まないということは、大切なものを次々と失ってしまうことと同じです。
論じられていることは、誰でもがなるほどと納得させられることばかりではありますが、実行することのなんと難しいことでしょうか。
特に今日のような時代になると、文字を読むことから人々が遠ざかっていくのをしみじみと感じます。
効率優先の時代
なんといっても効率優先の時代ですからね。
サラリーマンは、ビジネス書を手にとることはあるでしょう。
しかし人生の意義をあらためて考え直すといった類いの本は、つい敬遠しがちです。
画像や動画が全盛の時代です。
ブログもオワコンではないかと、最近声高に叫ばれています。
ぼく自身、確かに今まで書いた記事が、次第に蓄積されていくという実感がないワケではありません。
それでもなお、次第に読者数が減っているのを感じますね。
ここで著者が訴えている内容は、もちろん、そのようなレベルの話ではありません。
『六経』(りくけい)という言葉を聞いたことがありますか。
儒教の基本的な著書そのもののことを言います。
五経または六経は、漢代に官学とされた儒学における経書の総称なのです。
「六経」とは『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』の6つの経書を言います。
はやくに『楽』が失われたので残りの5つの経書を「五経」と呼んでいます。
それと合わせて論じられるのが「四書」です。
四書は、儒教の経書のうち『論語』『大学』『中庸』『孟子』の4つの書物を総称したものです。
こちらの方が、多くの人に知られているかもしれません。
両者をあわせて、四書五経と呼んでいます。
『論語』などは長大なものですね。
全部で1万6千字あると言われています。
読みこなすのは、並々のことではありません。
官吏登用試験の「科挙」などに合格するためには、多くの人がこれら儒教の本を学びました。
しかし著者、顔之推(がんしすい)にとって、これらの書物を学ぶことは、一生をかける作業だったのです。
たんに試験を突破するための手段ではありません。
その覚悟が文章の端々から、力強く伝わってくるような気がします。
本文を読んでみましょう。
本文
夫(そ)れ六経(りくけい)の指(むね)を明らかにし、百家の書に涉(わた)れば縦(たと)ひ德行を増益し、風俗を敦厚にする能(あた)はざるも、猶(な)ほ一芸を為(おさ)めて以(もっ)て自ら資(たす)くるを得(う)。
父兄も常には依るべからず。
郷国も常には保つべからず。
一旦流離すれば、人の庇廕(ひいん)なし。
まさに自ら諸(これ)を身に求むべきのみ。
諺(ことわざ)に曰く「財を積むこと千万なるは、薄伎(はくぎ)の身に在るにしかず。」
伎の習ひ易くして貴ぶべきものは、書を読むに過ぎたるはなし。
世人愚智を問わず。
皆人の多きを識(し)り、事の広きを見んと欲するも、肯(あえ)て書を読まず。
是れ猶(な)ほ飽くを求めて饌(さん)を営むを惰(おこた)り、暖かなるを欲して衣を裁つを惰(おこた)るがごとし。
現代語訳
そもそも六経(詩経、易経、書経、礼、楽、春秋)と呼ばれる儒教の古典の教えに精通し、諸子百家の思想書を研究することはとても大切です。
たとえ人としての德行を向上させることや、多くの風俗をよくすることに役立たないかもしれないとしても、それでも学問を修めたという一つの技を為すことで、学問の師になることなどをして、自力で生きていくことができるのです。
だからこそ、人は読書に努めるべきです。
親兄弟にしてもいつまでも頼れるとは限りません。
故郷の一族にしても常に助けになるものではありません。
一旦、流浪の身となって離れたならば、かばってくれる人は誰もいなくなります。
自分で自分を立てていくほかはないのです。
諺によく言います。
莫大な資産を持っているよりも、身に着けたわずかの技芸が助けになる、と。
その技芸の中でも、習いやすくて貴重なものという点で、読書に匹敵するものはありません。
世の人は愚人も才智のある人も、皆、多くの人たちから知識を得、広い世間のことに触れたいと考えています。
それなのに誰も書物を読もうとしないのです。
これはちょうどお腹いっぱい食べたいのに食事の支度を怠け、暖かい服を着たいのに衣服の裁縫を怠るようなものです。
そもそも昔のことがらを本で読むことは、この宇宙の下に、どれほどの人が登場し、どれほどのことがらをなしとげたか。
また人々の成功や失敗の要因などを知るためにも役立ちます。
このことは,もとより論じるまでもないのです。
天地も隠し切れないし、鬼神をも隱すことができません。
なぜなら、どんなことも、書に書き残され後世に伝えられるものなので、天地も鬼神も隠し切れないものだからです。
書を読み、人生を知る
この文章は直球そのものです。
何も反論するところはありません。
それぐらい読書というのは、意義あるものなのです。
数千年前の人に巡り合うことができ、その人と同じ時間を共有することができます。
小林秀雄の文章を読んでいると、彼の考え方の骨格が見えてきます。
同じ空気を吸うことができるのです。
山桜に身を寄せた本居宣長の気分を共有できます。
そのすばらしさを知らないことは、寂しいことです。
ぼく自身、本を読まなかったらと思うだけで、怖ろしいです。
巨万の富もあればいいに越したことはありません。
しかし友あり、遠方より来るという、学問の楽しみを知らなければ、その富を十分に生かすことはできません。
時間はみな、同じように過ぎていきます。
その中をどう生きるのかは、個人の自由です。
もう1度、ゆっくり自分を振り返りながら、考えてみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。