【法隆寺を支えた木】宮大工の神髄がこもった名著に心洗われる

名著の誉れ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

コロナの影響でどこにも行けません。

毎年、京都と奈良へ行くのを楽しみにしてきました。

何度出かけたことでしよう。

その度に新しい発見があります。

いいところですね。

本当の意味で心が穏やかになれる場所というのはそれほどにあるものではありません。

京都もすばらしいですが、奈良もいいですね。

鄙びていて、どこかに田舎を感じさせる風景が続いています。

唐招提寺から薬師寺まで歩いているだけで、幸福な気持ちになれるのです。

京都とは明らかに違います。

貴族の文化は複雑な内面を極力外にあらわさないようにしました。

もちろん、内側は燃えたぎっているのです。

それに比べれば奈良はもっと直線的です。

外側に全てを見せて、それでもまだ溢れ出る美意識に満たされています。

それが何よりの魅力です。

斑鳩と呼ばれる土地は、奈良の中心から少し外れます。

本当の田舎です。

そこに建立されたのが法隆寺なのです。

駅からバスに乗って参道の前に着くと、五重塔が見えます。

いい形ですね。

実に穏やかで、よく今日まで焼けずに生き残ってくれたと感謝したくなります。

これが歴史なんでしょう。

境内に入ると、不思議な落ち着きを感じます。

帰ってきたという感慨でしょうか。

法隆寺

法隆寺は7世紀に創建されました。

推古天皇15年(607年)とされています。

金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。

現存する世界最古の木造建築物です。

1300年という時の流れを生きてきたというその事実だけで、頭が下がります。

よくぞ残してくれたというのが実感ですね。

木だけで倒れもせずにじっとしているということに驚かされます。

五重塔の高さは32メートルもあります。

ポイントは心柱でしょう。

まさに中心になる木です。

地下3メートルまで掘って、そこに舎利の容器を納め、北面には有名な釈迦の入滅を悲しむ弟子の像が安置してあります。

何度も修復をし、必ず後世に残さなければいけないと信じて、たくさんの宮大工が仕事をしてきたものと思われます。

理屈ではありません。

どんなことがあってもこの塔を倒してはならない。

必ず仏のご加護をもって永遠に残るものを作ること。

それが彼らに託された使命だったのでしょう。

多くの名人上手と言われた棟梁たちが、働いたものと思われます。

最後の宮大工

最後の宮大工と言われた西岡常一が亡くなってかなりの歳月がたちました。

彼の著書『法隆寺を支えた木』を読んだのは、かなり以前のことです。

この本は興味深いというだけでなく、人間の生き方を示す手本だと言えます。

それまで木というものは皆材木にしてしまえば同じだとばかり思っていました。

しかし西岡棟梁は一本の木にはそれぞれの歴史があると言います。

木の成長はどのように太陽があたっていたのか、どこから風が吹いていたのかによって、1本1本、性質が違います。

自然にねじれが生じるのです。

特に北に向いていたものと南に向いていたものは、繊維の組成までが違うそうです。

そのままもし同じ方向で使ってしまうと、必ず傾いていくのです。

北向きの繊維は密度が濃く、しまっています。

反対に南向きの部分は組成が荒く、柔らかくできています。

れを防ぐためにそれぞれの成長していた方向と逆に組み合わせるという方法をとるのです。

このことは人間の組織や編成にも応用できる方法論なのかもしれません。

Graham-H / Pixabay

奈良に生まれた西岡常一は宮大工だった祖父に連れられ、毎日法隆寺を眺めにいきました。

祖父は自分の仕事場に少年だった彼を伴い、その場から動くことを許しませんでした。

その後、祖父の意志で農業高校に入った彼は、自然への畏れを身体にいやと言うほどたたき込まれます。

机上の理論だけでいい米はとれないということを学ぶのです。

高校卒業後、西岡はとうとう宮大工になる決心をします。

祖父の熱意に応える気持になったに違いありません。

ところでぼく達の家は普通数十年という単位で建て直されます。

特に最近の組み立て式住宅は、言葉は悪いですが、キット化されています。

かつてのようにカンナや鑿で切ったり穴をあけたりする作業はなくなりました。

完全に組み立て部品を積み上げていくという作業に変化しています。

宮大工が1番最初に学ぶ仕事は刃物を研ぐことです。

きちんと刃物が研げない職人に、仕事を任せることはありません。

最初は掃除だけです。

夜、寝る前に研ぎ方の練習をひたすらするのです。

千年の寿命

俗に家は上ものと呼ばれ、不動産である土地とは全く価値意識が違います。

しかし法隆寺などの寺社建築は最低千年の寿命を考えてたてられています。

その規模の壮大さを想像することはほとんど不可能に近いのではないでしょうか。

現在の法隆寺は実に千三百年前の建築物です。

その間、どんな地震にも揺らぐことはありませんでした。

昭和の大修理を引き受けた西岡は、檜という木材の持つ力に圧倒されます。

建築物を1つ1つ分解していくと、全く損傷のない檜材が目の前にあらわれたのです。

剥がしたばかりの板はその場ではじき返すだけの弾力を持っていました。

千三百年を生きる檜は当然樹齢が同じ程度のものでなくてはなりません。

しかし現在の日本にそれだけの木はもうないのです。

彼が薬師寺の西塔建立を目指した時、木材は全て台湾から輸入しなければなりませんでした。

おそらくこの仕事が西岡常一畢生の大事業だったと思われます。

その間病気にかかり闘病生活も余儀なくさせられました。

しかしなんとか千年後に残る塔をたてたいという意志が彼を立ち直らせたのです。

現在薬師寺の西塔は東塔に比べて30センチ以上、基壇が高いそうです。

しかしこれも千年の後には同じ高さになると言います。

彼は鉄製の釘を使うことを最後まで拒否しました。

鉄は必ず錆び、そこから木が腐っていくからです。

西岡家は彼を最後に宮大工を輩出することをやめてしまいました。

しかし彼を生前慕った弟子によって、宮大工西岡常一の魂は今も生きているのです。

小川三夫棟梁がその人です。

仏壇屋などで修行をした後に、22歳で西岡常一の唯一の内弟子となりました。

生前西岡は小川を評して「たった一人の弟子であるけれども、私の魂を受け継いでくれてると思います。」と述べています。

彼のところにも弟子の志願者が時々来るとか。

しばらく傍に置いて掃除全般や、研ぎの練習をやらせ続けると、だいたいの若者は去っていくといいます。

憧れだけでなれる職業ではありません。

歴史と戦うには相応の覚悟が必要なのです。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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