「連詩の可能性」詩人大岡信が願い続けた新鮮な言葉との出会いはあったのか

連詩の可能性

みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は複数の詩人たちが一緒につくる、連詩の可能性について考えてみましょう。
中世に流行した連歌については知っていることと思います。
日本の古来に普及した伝統的な詩形の一種です。

五七五の発句と七七の脇句の長短句を交互に複数人で連ねて詠んで一つの歌にしていくものです。
1488年、後鳥羽上皇の250回忌に,水無瀬神宮に奉納された『水無瀬三吟百韻』が特に有名ですね。
今回はその作業を詩でやってみようという試みについての話です。

詩人、大岡信は連詩という共同制作の可能性に挑み続けました。
谷川俊太郎、川崎洋などと一緒に「櫂」というグループを立ち上げた人です。
朝日新聞紙上に『折々の歌』を書き続けたことでも、よく知られています。
彼が連詩を重視したのは、一人の作り手だけではなく、多くの人々が力を合わせて一つの作品を作ることに大きな価値を見出していたからです。

連詩は、連歌と同じく、複数の人が順番に、それぞれ数行の詩を前の詩に連ねる形で書いていくもののことです。
1人で詩を書く場合、当然のことながら、その人の個性や考え方が強く反映されます。
しかし連詩はそうではありません。
異なる視点や感性が出会うことで、1人では到達できない創造的な表現が生まれる点に意味があります。

大岡信は、連詩の過程を「対話」だと認識していました。
様々な背景を持つ詩人たちが共に生きるられる空間はどこかを考えたのです。
連詩の試みはそのモデルになるとなると彼は信じていました。

連詩のルール

連詩には、いくつかのルールがあります。
基本は「複数の詩人がその場を共有すること」「その時間を共有すること」「リレー形式で書いていくこと」の3つです。
ある人が詩を作った後、それを直接繰り返したり否定したりせず、新たな視点を加えながら流れを作っていくのが最大のポイントです。

前の詩の内容やリズム、イメージに寄り添いながらも、次の人が自由に創造するものを残すことも求められます。
約束を守りながら、当事者より深く考え、独自の表現を生み出すきっかけを探すというのが連詩の目的なのです。
連詩の最大の効果は、人と人がつながり、創造的に学び合える点にあります。

他者の詩を受け止めることで、自分の考えや感覚が広がる経験が得難いのです。
連詩は参加者の間に「共感」と「対話」を実現する手段だと彼は考えました
1つの作品を共有することで、言葉を超えたつながりや、一体感を味わうことができるはrずだと信じた結果です。

大岡信の著書に『連詩の愉しみ』があります。
岩波新書に収められています。

「論理国語」の教科書本文

私は1981年以来、海外で諸外国の詩人たちと詩を共同で作る試みをときどきやってきました。(中略)
連詩は原則的に同じ室内で、同じテーブルを囲んで行います。
事情によって多少の変化はあろうとも、とにかく同じ場所、同じ時という条件は一義的に重要です。

現代詩人が、欧米でも日本でも通常信じて実行している詩の作り方、すなわち個人の秘密の時間と場所において、秘密の祈祷にも似たやり方で詩を書く、という習慣は、連詩の場に臨んだ瞬間から大きく揺さぶられます。
一般に、彼らにとっての大きな苦痛は、他人と同じテーブルを囲んだまま、丸見えの状態で、詩を作るということは、自分自身の詩的創造行為のある種の秘密の鍵まで同席者たちにのぞかせてしまうことに通じると感じられる点にあります。

これはその詩人の資質いかんによっては、堪えがたい暴力的な内部への侵犯にほかなりません。
日本の詩人たちにとっても事情は同じですが、日本の和歌や俳句の伝統にあっては古典的な連歌・連句の場のみならず、現代でも歌会や句会、または吟行という習慣が行われていて、思えばこれらはすべて、苦痛をひきおこすどころか、むしろ嬉々とした競争的・遊戯的要素を内に含んだ集団の競技にほかなりませんでした。(中略)

実際に行われた連詩の体験はどうだったのでしょうか。
現実に数日間同じホテルに寝泊まりし、常に同じテーブルを囲んで詩作にふけるという経験を強いられた彼ら4人の詩人は、どうやらかつて一度も味わったことのない苦痛を味わったようです。

(オクタヴィオ・パス、ジャック・ルーボー・エドアルド・サングイネーティー、チャールズ・トムリンソン)

複数作者が一堂に会して作る連詩という詩の形式は、参加者一人一人に対して、単に作者であるのみならず、同時に他者の詩に対するきわめて親身で敏感な鑑賞者・批評家であることを要求します。
この鑑賞者・批評家は一座の参加者である以上、本質的には一瞬の切れ目もなく、作者として存在しています。

ある参加者が仮に苦吟を強いられ、待たされている一座に白けた時間が流れ始めたとしても、一旦彼が詩句を作りあげた瞬間、今まで傍観していた次なる人物の立場は一変し、脳髄はいきなり自分の前に置かれた数行の未知の詩句に対して鋭敏な鑑賞力を働かせつつ、同時に作者として自分の詩をこれにつけてゆく作業にとりかからねばならないのです。

NHKの番組から

連詩についてしばらく考えていたら、かつてNHKで放送した『未来潮流』という番組の録画がYoutubeにありました。
タイトルは「連詩〜苦闘する詩人・響き合う言葉の宇宙〜」(1998年12月12日放送)というものです。
大岡信がどれほど熱心に連詩に取り組んだのかということが、如実にわかります。

セッションには、イギリスからは詩人チャールズ・トムリンソン、ジェイムズ・ラズダン、日本からは大岡信、川崎洋、佐々木幹郎の各氏が参加しました。
5人の詩人が呻吟しながら、前の詩に自分の世界を付け足していく様子から、言葉の持つ深さの源泉を感じたのです。

ラズダンの詩に続いて大岡は次のように綴りました。

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もののあはれはいつでも新たに見出される
見よ、道なき海のまっただ中をも
美しく 道を開いて 往く魚たち

幾つかの詩の後、佐々木幹郎は次の言葉を紡ぎ出しました。

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ガンジスの上の月
長江の水に映る月
シベリアの氷土を青く染める月
天竜川を流れる月
わたしの影は水に映り
恋する心は何処へでも流れる

長い詩の最後を大岡は次のことばで締めくくっています。

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幾百の都市を超えてやってきた二人の詩人よ
燕のやうにまたやっておいで
太陽と驟雨を背負って
詩では政治は変へられないが
詩は生きのびるためのレッスンだ
囁きや溜息の下で
哄笑を養ふ技術だ

この連詩は実際は大変に長大な詩です。
チャンスがあったら是非、手に入れて味わってみてください。
読んでいると、それぞれの詩人たちの世界がみごとに交感して、響きあっているのを感じます。
詩の可能性が、みごとに広がっています。

言葉の持つ豊かな深みにどっぷりとつかってみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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