【孟子・人に忍びざるの心】井戸に落ちた子を助けようとする惻隠の情とは

学び

人に忍びざるの心

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は漢文の中でも、よく話題になる「性善説」と「性悪説」を取り上げましょう。

教科書にも孟子と荀子は必ず所収されています。

読んでいると、どちらの説にも理があります。

なるほど、その通りだとつい納得させられてしまうのです。

つまり人間はそれだけ複雑な精神を孕んだ生き物だということが、言えるのでしょう。

1人の人間の何かに神と悪魔が同居しているのです。

それがその時々の状況に応じて顔を出す。

「君子豹変」などという言葉もあります。

ご存知ですか。

相手によって態度を次々と変える人がいますね。

誰でも人に嫌われたくないという気持持っています。

どうしても人の顔色をうかがってしまうものなのです。

気が小さく、周りにどう思われているのかが気になって仕方がないという面を持っているためです。

同じ人の評価が全く同じということはありません。

人間の心は紫陽花のようだともいわれますね。

それだけ、厄介な存在なのです。

自分自身でも、どれが本当の本心なのか、わからない時もあります。

そうした人間の側面を捉えた言葉が「性善説」と「性悪説」です。

中国の思想家の中では孟子と荀子がよく取り上げられます。

この二項対立は内容がとても理解しやすく、それぞれの主張がきちんと向き合っているため、読みやすいのです。

今回は孟子の性善説を取り上げましょう。

声に出して読んでみてください。

内容が頭に入ってくれば、文章も自然に読みやすくなります。

書き下し文

孟子曰はく、「人皆人に忍びざるの心有り。

先王人に忍びざるの心有りて、斯(ここ)に人に忍びざるの政有り。

人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運(めぐ)らすべし。

人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以(ゆゑん)の者は、今人乍(たちま)ち孺子(じゅし)の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕(じゅってき)惻隠(そくいん)の心有り。

交はりを孺子の父母に内(い)るる所以に非(あら)ざるなり。

誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非(あら)ざるなり。

其の声を悪(にく)みて然するに非ざるなり。

是に由(よ)りて之を観(み)れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。

羞悪の心無きは、人に非ざるなり。

辞譲の心無きは、人に非ざるなり。

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是非の心無きは、人に非ざるなり。

惻隠の心は、仁の端なり。

羞悪の心は、義の端なり。

辞譲の心は、礼の端なり。

是非の心は、智の端なり。

人の是の四端有る、猶(な)ほ其の四体有るがごときなり」と。

現代語訳

孟子が言いました。

「人には皆、他人の不幸を見過ごせない気持ちがあるものです。

古代の聖王は、人の不幸を見過ごせない気持ちをみな持っていました。

だから人の不幸を見過ごせない政治ができたのです。

人の不幸を見過ごせない気持ちを持ち、人の不幸を見過ごせない政治を行えば、天下を治めることは、手のひらにのせて玉をころがすようにたやすいものです。

人には誰でも、他人の不幸を見過ごせない気持ちがあるというその理由は、どこにあるのでしょうか

もし幼児が今にも井戸に落ちそうになっているのを見たなら、驚いて大変だと思い、誰でも助けようとするでしょう。

それは子供の両親と親しくなろうとして、そうするのではありません。

村人や友人にほめてもらおうとして、そうするのでもないのです。

あるいはその子を見殺しにしたことで、非難されることを恐れたからそうするのでもないのです。

遠慮し人に譲る心をもたない者は、人ではありません。

善し悪しを見分ける心がないものは、人ではありません。

人の不幸を見過ごせない心というものこそが、仁(思いやりの心)の芽生えです。

自分の不善を恥じ、他人の不幸を憎む心は、義の芽生えです。

譲り合う心は、礼の芽生えです。

善し悪しを見分ける心は、智の芽生えです。

人がこの四つの芽生えを持つことは、ちょうど両手両足があるのと同じなのです。」

惻隠の情

「惻隠(そくいん)の心は仁の端なり」という表現があります。

孟子の「性善説」に繋がる大切な表現ですね。

彼の論理によれば、心の作用には「四端」と呼ばれる4つの要因があります。

誰にでも備わっている心の作用です。

①惻隠の心……………「仁」
②羞悪の心……………「義」
③辞譲の心……………「禮」
④是非の心……………「智」

①「人に対する同情の心が仁につながる」
②「自分で恥ずかしいと思うことが、義につながる」
③「遠慮する心の作用は礼につながる」
④「良否の判断をする作用は智につながる」となります。

これは学んで身につけるものではなく、誰にでも生まれた時から心の中にあるという考え方です。

「惻隠の情」という言葉を最近はあまり耳にしなくなりましたが、とても大切な心の持ち方だと思います。

相手の立場に心を寄せることで、他者の存在が愛おしく大切なものになります。

わかりやすくいえば、「人間愛」に近いのかもしれません。

この言葉を孟子は非常に大切にしました。

子供が急に井戸におぼれた時、人は怵惕(じゅってき)の心を持ちます。

はっとして驚くのです。

その次にくるのが「惻隠の情」ですね。

恰好をつけて、人に喜ばれようとしてするのではなく、人間としてごく普通に行動するだけなのです。

その「同情心や憐みの心」がすべての徳目の出発点であると断定したのです。

孟子の考え方を学ぶと、なるほどその通りだと納得させられます。

しかし同時に、今の世界は「人間愛」だけで成立するのだろうかという懐疑心が起こらないワケではありません。

その時、荀子の「性悪説」に似た考えが沸々と顔を見せるのでしょう。

今回は孟子の性善説だけにしておきます。

この二項対立は永遠のものかもしれません。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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