【夏目漱石・夢十夜】運慶は木の中から仁王の魂を掘り出す鬼になった

不思議な小説

みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は夏目漱石の小説『夢十夜』を取り上げます。
高校の教科書にはかなり取り上げられています。
特に第1夜が多いようですね。
格別に夢の要素が強い章です。
覚えていますか。

こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。
女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。
真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。
とうてい死にそうには見えない。

しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。
自分も確にこれは死ぬなと思った。
そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。
死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。
大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。

思い出したでしょうか。
特異な文体の小説です。
女は日が昇り沈むのを何日も待てますかと訊くのです。
さらに百年間、墓の脇で待っていてくださいと呟きます。

歳月が流れ、太陽が昇ったり沈んだりするのを数えていると、すらりと揺らぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開きます。
真白な百合が鼻の先で匂ったのです。
遠い空を見たら、暁の星がたった1つ瞬いています。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついたというストーリーです。

漱石の心の中

本当のことをいうと、この教材を扱うのはあまり得意ではありませんでした。
読んでみてどんな印象を持ちましたか。
何を言っているのかわかるでしょうか。
昔から、これは漱石の心理の内側を描写した作品だとよく言われてきました。
彼の躁鬱的性格をこの小説から読み取ろうとする人もいます。
事実、大変に厄介な人だったということは夫人の書いた『夏目漱石の思い出』の中に詳しく描かれています。

弟子や友人に対する態度と家族への対応は全くと言っていいほど違うものだったようです。
そのあたりは心理分析に使われる素材でもあります。
しかしぼくにはそこまで踏み込めませんでした。
ただ「死」というものをどう扱うのかという考え方が出ていることは確かです。
シェイクスピアによる「ハムレット」の一場面を主題とした絵画がよく取り上げられましたね。

恋人のハムレットに自身の父親を殺されたショックで発狂した末に溺死するオフィーリアの姿を描いたものです。
作者は英画家ジョン・エヴァレット・ミレイ。
夏目漱石の『草枕』の中にもこの作品について触れた箇所があります。
川の流れの中に浮かぶ女性の死体のイメージから、漱石はこの小説を書いたというのです。
『夢十夜』にも同じように通じる部分があるのでしょうか。

教科書に載っているもう1つの夢

もう1つの題材は「第6夜」です。
この話の方がぼくにはストンと落ちます。
芸術の謎と考えればわかりやすい気がするのです。
こちらには運慶が登場します。
鎌倉時代に活躍した仏師の代表です。

運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。
いっこう振り向きもしない。(中略)
高い所に乗って、仁王の顔の辺をしきりに彫り抜いて行く。
運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って賞め出した。

自分はこの言葉を面白いと思った。
それでちょっと若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、「あの鑿と槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」と云った。
「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。(中略)
するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。
まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。
はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。
それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った。

覚えているでしょうか。
途中かなり省略しています。
実際の文章は「青空文庫」で読めますので興味のある方は覗いてみて下さい。
それほど長いものではありません。

仁王が木の中に埋まっている

第6夜のキーワードは「眉や鼻が木の中に埋まっている」にあります。
運慶はただそれを槌の力で掘り出しただけだというのです。
彼が象徴しているものとはここに表現された行為そのものです。
この部分はさまざまな解釈が可能でしょう。
芸術の持つ本当の力というのはこういうものなのかもしれません。
神が人間の形を借りて降りてくる。
そして人間と交感しながら、それを表現する。
この行為は絵や彫刻だけに限りません。

あらゆる創造的な活動全てに言えるのではないでしょうか。
音楽などにもこの表現は当てはまると思います。
運慶はおそらくこういうものが彫りたいと思いながら手を動かしたのではないのでしょう。
そうせざるを得ないギリギリのところで活動したのです。
結果としてそれが彫刻になった。
よく言われることですが、問題の核心は全てその人間の中にあると言います。

カウンセラーや教師にできることは、その人間の気づきを助けることだけです。
誘導することも無理でしよう。
その人間の中に埋もれている何かを外へ引き出すこと。
それにつきるのではないでしょうか。
もちろん本人にも教師にもまだ見えていません。
それでもそちらへ少しずつ移動していこうとする人間の力があるはずです。
運慶の場合は、それが鑿を持つ自在な手でした。

自分たちに何があるのか。
それを気づかせてくれる人が存在するのかどうか。
いつの間にか百年は過ぎているのです。
それくらい歳月の流れは早い。
その怖さに打ち勝ちながら、それでも業と戦うということになるのでしょうか。
夢十夜の2つの章を題材にして、最近少しだけ思うところを書かせてもらいました。
最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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