【後悔の連続】過去にこだわる生き方からあなたも自由になりたいはずなのに

後悔と自責

みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は過去の大学入試問題から考えてみます。
出典のタイトルは『後悔と自責の哲学』です。
筆者はドイツ哲学、とりわけカントが専門の中島義道氏です。

人間はみな自由でありたいと思って生きています。
しかしなかなかこれを実践するのは容易ではありません。
その理由は単純です。
何かを選んだ瞬間に、他の選択肢を諦めなければならないからです。
AもBもCもすべて手に入れたいとなると、そのために限られた時間、資産、体力などをどう配分するのかという難題が持ち上がります。

他のこともしておけばよかった、と必ず後悔する羽目になるのです。
元々後悔とは何のことをいうのでしょうか。
人間はいつも過去の行為に対して、多かれ少なかれ反省をし、後悔を重ねるものです。
他の選択肢から自由になるためにはどうすればいいのか。

これは永遠のテーマですね。
そのメカニズムに多くの哲学者が挑みました。
中島氏の考え方は、自由論の内部を広げ、そこから道徳法則にまで及んでいます。
実は経済の分野にもこの考え方は応用されているのです。

あなたは「機会費用」という表現を聞いたことがありますか。
人間の行動において、ある選択を行うことで失ったものの価値のことをいいます。
私たちは、望むものすべてを手に入れることはできません。
あるものを選んだら、当然選ばれなかった選択肢はその犠牲となるのです。
同時にあらゆるものを選ぶことは土台無理な話です。

機会費用

たとえばそれが目の前にある品物であれば、価格や性能など個人の価値基準で判断し選択しますね。
ではそれが行動というレベルだった時には、どうなるのでしょうか。
やはりその時の自分にとって、最も価値があると信じられるものを選ぶはずです。
当然、選ばれなかった他の選択肢を実行した時に手にいれたはずの価値は、犠牲になっています。

これを経済学では「機会費用」と呼んでいるのです。
品物なら、次のチャンスに手に入れようと、我慢もできます。
あるいは買い替えることも可能でしょう。
しかし1度きりの人生はどうなるのか。
その時にするべきだった行動は、あとでやり直せるのか。

人間の生き方の中で、一般的に若い時の選択はあとへの影響が強いものです。
例えば、進学、就職、恋愛などを具体的に考えただけで、よくわかるはずです。
もちろん、それ以外の年齢での選択肢もさまざまに考えられますね。
人生は答えのない一本道です。
時間を巻き戻すことはできません。
そこで登場するのが後悔なのです。

あの時、ああしなかったら、私の人生はどうなっていたか。
もちろん、その逆もあるでしょうね。
ああしていたからこそ、今の自分があるという考え方もあります。
いずれにしても過去を振り返ることで、少しでも今後のいい生き方を探したいという熱望に支えられているのは事実です。

あなた自身の今を支えているターニングポイントはなにか。
それを考えることもここでは意味があるのです。
中島義道氏の後悔に対する考え方を少し読んでみましょう。

本文

「そうしないこともできたはずだ」という私の思いは、その時私が「自由であった」という思いとリンクしています。
とはいえ、ここで頭の切り替えが必要なのですが、私は自由であるがゆえに、後悔するのではない。
あの時私がAを自由に選んだから、Aを選ばないこともできたはずだ、と推量するのではない。
全く逆なのです。

私はあの時「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのです。
つまり、自由とは、自ら実現したある過去の意図的行為に対して、「そうしないこともできたはずだ」という信念とともに生じてくる。
この信念は根源的であり、他の何者にも由来するものではない。

そしてここでは「そうしないこともできたはずだ」という信念を、日常の使い方より広い意味を含んでいることを承知の上で、「後悔」と呼びたいのです。
日常的には、我々は自らなしたかなりの意図的行為に対して「そうしないこともできたはずだ」
という信念を抱きつつ、ひとりでに忘れていき、あるいは自分で忘れようと努力して、それにこだわることはない。

だが、こうした操作をいくらしようとしても、どうしても「そうしないこともできたはずだ」という叫び声が体から消えないことがある。
その時、我々は「後悔にむせぶ」のですがこういう強度の後悔から「ああまたやっちゃった」と舌を出して苦笑いする程度の後悔まである。

しかも、過去における自分のある意図的行為に対する後悔とは、一度後悔したら固定されるのではなく、我々が人生の経験を重ねていくにつれて、態度もくるくる変わってくる。
過去における自分のある意図的行為をはじめ激しく後悔したのだが、後に「これでかえってよかったのだ」と思うことすらあり、逆にはじめは何ともなかったのだが、後の人生の数々の出来事との遭遇によってそれが次第に大きな意味を担ってきて激しく後悔するようになることもある。

すなわちに過去における自分のある意図的行為に対する後悔とは それが客観的にいかなるものであったかを確定することにとどまらない。
さらにそれをどう解釈するか、さらにはこれからどういう人生を渡っていくべきか という考察にまで及んでおり その意味で 過去に対する態度一般にかかっているのです。
したがって、後悔とは過去を解釈することそのことであり その解釈を通じて未来を形成することでもあるのですから、まさに我々の根源的な精神活動というわけです。

道徳の法則

人間はみな過去における自分の行為を後悔する生き物のようです。
それがあるからこそ、過去は存在しているともいえます。
厳しい現実ですね。
では後悔にはどの程度の可能性が宿っているのか。
反省し、後悔することで、わたしたちは残りの人生をより豊かにすることができるのでしょうか。
今さらどうにもならないことだって、たくさんあるのではありませんか。

それでもやはり後悔するのが、人間なのでしょうね。
自分は過去において少なくとも今よりは、自由であったのかもしれません。
それを自分から「しがらみ」という名前の囲いで、塞いでしまったのではないでしょうか。
しかしそう言ってしまっては、あまりに身も蓋もないのです。
過去に原因を探り、それをつきとめたら、次にはその原因を取り除く努力を重ねる。

この繰り返し以外に生きる道はないのかもしれません。
道徳を守っていたと自覚するだけでなく、道徳に反していたかもしれないという考えを持つだけでもいいのです。
そこからではもういちど、道徳を遵守してみようかと思いはじめれば、新しい地平に躍り出られる可能性もあります。

もしかしたら、そこから新しい「自由」が生まれるのかもしれません。
カントの言葉に、人間は自由をそれ自体としては認識できず、「すべきであった」という普遍的な法則をそこから見つけ出して紡いでいく存在なのだという表現があります。
後悔は無駄ではありません。
それが生きるための一里塚なのです。
あらためて、自分の生き方をもう1度考えてみてください。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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