【真実の百面相・大森荘蔵】人間は複雑怪奇でこころはアジサイの花とおなじ

本当とは何か

みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「本当」について考えます。
人間はある年齢になると、何が本当なのかということを知りたくなります。
「真実」といってもいいかもしれません。

自分探しなどもその1つかもしれません。
「本当の私」とは何かということです。
確かに他人はいろいろな評価をします。
有名な太宰治の小説『斜陽』の中に次のような表現がありますね。
ご存知ですか。

主人公の独白の形をとって表現されています。
ぜひ、手にとってみてください。

僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を、早熟だと噂した。
僕が、なまけものの振りをして見せたら、人々は僕を、なまけものだと噂した。

僕が小説を書けない振りをしたら、人々は僕を、書けないのだと噂した。

僕が嘘つきの振りをしたら、人々は僕を、嘘つきだと噂した。
僕が金持ちの振りをしたら、人々は僕を、金持ちだと噂した。
僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を、冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を、苦しい振りを装っていると噂した。
どうも、くいちがう。

太宰独自の「独白体」によって書かれています。
ここにも「本当」とはなにかという問いが隠されています。

真実は関係の中に

人間は複雑な生き物です。
自分の本当の姿というものがどこにあるのか探そうとしても、そう簡単みつかるものではありません。
大きくいってしまえば、本当はないのかもしれないのです。
しかしそれではあまりにも面白くありません。
せめてその基本になる形を探してみたいものです。
どうやったらいいのか。

おそらく関係の中でみつけるしかないでしょうね。
Aという人間と出会ったときと、Bという人間と出会った時とは、おそらく同じではないのです。
あるいはもっと多くの人間と同時に行動するときも、おそらく形は変わるのでしょうね。
言い方は悪いですが、アメーバーのようなものです。
ミトコンドリアとでもいったらいいのかもしれません。

不定形なのです。
だから自分はこういう人間だと決めつけることもできません。
相手次第で、全く違う行動様式をとる瞬間があります。
それがおそらく「本当」の姿なのです。

「論理国語」の教科書に興味深い文章が載っていました。
真実は百面相に近いというのです。
確かに、そうした面はあります。
相手との関係の中で自分が変化していくことの醍醐味を知れば、それをあながちに否定することはできないのです。
哲学者、大森荘蔵氏の文章を少し引用してみましょう。

本文

人はえてして事を一面相で整理したがるように見える。
例えば 知人の人柄をあれこれ品定めする時、彼は本当はいいやつなんだ、一見人付き合いは悪いけど本当は親切な男なんだよ。
こうした評言はどこにいても聞かれる。
こうした言い方の中には、人には「本当の人柄」というものがあるのだが、しばしばそれは、仮面でおおい隠されている、といった考えが潜んでいるように思われる。

人を見る目、というのもこの仮面を剥いで、生地の正体を見て取る力だと思われている。
しかし、「本当は」親切な男が働いた不親切な行為は、嘘の行為だと言えようか。
その状況においてはそういう不親切を示すのも、その親切男の「本当の」人柄ではなかったか。
人が状況によって、また相手によって、様々に振る舞うことは当然である。

部下には親切だが、上役には不親切、男には嘘をつくが女にはつかない。
会社では陽気だが家へ帰るとむっつりする。
こういったまだら模様の振る舞い方が自然なのであって、親切一色や陽気一色の方が人間離れしていよう。
もししいて「本当の人柄」を云々するのならば、こうして状況や相手次第で千変万化する行動様式が織りなすまだらなパターンこそを、「本当の人柄」と言うべきであろう。

そのそれぞれの行為の全てが、その人間の本当の人柄の表現なのである。
普段はケチな男が何かの場合、涙を飲んで大盤振る舞いをしたとしても、それは演技でも仮面でもない。
それはその人間の涙ぐましい真剣な行為であり、その人の本当の人柄の表れなのである。
その演技に騙されたという人は、何も嘘の行為に騙されたのではなく、その行為から誤ってその人は普段もおごり好きだと思い込んでいただけである。

消えた本当

それは統計的推測の間違いであって、その大盤振る舞いが何か偽の行為であったというのではない。
本当は存在しないのか
冷静に考えると、確かに「本当」などというものはないかもしれません。
特に人間性という論点からみてみると、相手次第で、自分がどんどん変化していくのがよくわかります。

あるいはその場の持っている力というものもあるでしょう。
場の持つ磁力によって、自分が思っている自分とは違う所作や行動をするということもあります。
難しくいえば「憑依」かもしれません。
しかしそれもまぎれもない「自分」なのです。

役者などが、いくつもの役柄をこなしていくなかで、自分の性格がよりはっきりと見えてきたなどと、述懐することがあります。
それが楽しいから、いつまでも続けられるのだともいいますね。
以前の役柄からは想像もできないような人間の醜悪さを演じたりすることも可能になるのです。

鬼が出てくる能などを見ていると、人はこれほどに執念というものを強く持ち続けるものなのかと感心してしまいます。
ことに愛情に絡むケースの場合、殺意にまで発展することはよく知られていますね。
あんな穏やかな人が、なぜ殺人を犯すのかということもあります。

そういう意味で見てみると、世界そのものからも「本当」というものが消え落ちてしまいます。
ある国の政治も、他の国から見れば否定されるべきものになります。
それではすべてが相対主義ではないかという考えかたもあるでしょうね。
それほど、真実に向き合うことは難しいのです。

どこに本当があるのか。
それを生きていく中で探し続けるしかないのでしょう。
客観的という言葉を誰もがよく使います。
しかし、よく考えてみればみるほど、この表現のあいまいさというものがみえてきます。
本当にそれは「本当」なのかといわたれら、しばらく沈黙してしまう以外に方法はありません。

真実は途方もない果てにポツンとあるものかもしれないのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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