【世代間における環境倫理学】我々は未来の世代にエネルギーを残せるのか

学び

環境倫理学

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はエネルギーを使うとはどういうことかについて考えます。

難しい問いです。

真剣に考えれば考えるほど、答えが出ません。

それでも論じなければなりません。

小論文の問題としてはかなり高度なテーマです。

課題文は哲学者、加藤尚武氏の『環境倫理学のすすめ』から引用したものです。

現代が直面する、生命や環境に関する哲学的な側面を分析している評論文です。

主要な論点は一つしかありません。

我々は後の世代の人々に、エネルギーを残さなくていいのかということです。

人類の歴史の中で1パーセントにも満たない近代という時間の中で、化石燃料を使いきることは許されるのかという問いです。

未来に生きる人間の生存権を保証しなくていいのか、というのがそのポイントです。

人類は近代化によって「過去の世代にはもう遠慮しない」という文化をつくりあげてきました。

それは同時に「未来の世代に責任を負わない」ということを意味するのです。

地球の生態系が数千万年をかけてつくりあげた化石エネルギーを、わずか数百年の世代の人間が、使い果たそうとしているのです。

これは事実です。

それに対して、あなたはどう考えるのかという疑問です。

それは仕方のないことだと諦めるのか。

あるいは有効な方法論があるはずだとするのか。

800字程度で書きなさいというのが、この文章に対する設問です。

課題文を読んでみましょう。

内容は理解しやすいです。

ポイントはどうキーワードをつかみとるかにあります。

本文

環境を不可逆的に汚染し、有限な資源を使い果たすという現代文化の持つ体質は、近代人の考えた「進歩」という歴史像が絵にかいた餅にすぎないことを告げている。

現在が未来を食いつぶしている。

それなのに現代人の多くが、人類は相変わらず進歩の坂道を上り続けていると信じている。

現在世代が未来世代に進歩という贈り物をしていると信じ込んでいる。

現代は進歩が虚偽と欺瞞になっている時代なのである。

化石エネルギーを利用する限り、必ず地球生態系の破壊が進行する。

有限な埋蔵資源に依存するような生存条件、例えばエネルギー戦略は、未来世代の生存可能性を破壊する。

倫理的に許容可能な形態は、太陽エネルギーを用いた資源の循環的な使用ということになる。

もしも世界の人口が定着化するという未来像が正しいとするなら、定常化時代の文化は資源の循環的使用という構造的な特色をもたざるを得ないだろう。

ここから資源と環境に関して、いかなる世代も未来世代の生存可能性を一方的に制約する権限を持たない。

未来世代に廃棄物の処理を強制してはならない。

未来世代に現在世代と同じだけの化石燃料の在庫を残さなければならない。

すると循環的に利用できる条件内でのみ、エネルギーと資源を利用しなければならないという結論になる。(中略)

石油、石炭を燃やしてエネルギーを湯水のように浪費する文化は必ずどこかで行き詰まる。

長く見積もっても、化石エネルギーの消費という時代は人類の歴史の中で500年ぐらいしか続かない。

人類の歴史が過去と未来に5万年ずつあるとすると、その10万年のうちのわずか500年の世代が、地球の生態系が35億年の歴史をかけて蓄積した化石エネルギーを使い切ってしまうのだ。

これ以上のエゴイズムは考えられない。

未来世代は、化石エネルギー浪費文化の恩恵にあずかれないのだ。

現在の繁栄は未来の窮乏である。

この構造に反省もなしに居座っているのが、現在世界である。

3つの考え方

環境倫理の問題はかなり以前から考えられてきました。

大きく3つのキーワードで理解することができます。

①循環
②共存
③抑制

この3つの表現をうまく使わなければなりません。

それぞれの考え方の基本は以下の通りです。

① 地球の限りある資源の中で人類の社会をどう持続させていくか。

② 生きものである人間同士がどう共存、共生し合えばいいのか。

③ 欲望を持ちすぎると、結局は人間の社会を破壊するという自覚をどのようにしたら持てるのか。

ここで筆者が強く述べていることの骨格がわかりますか

言いたいことはそれほど複雑なことではありません。

もう少し深掘りすれば次のようになります。

① 現在を生きている人間のことだけではなく、将来世代の人々のことまで含めて、私たちは自分の行動を決めていかなければならないこと。

② 人間だけではなく、動物や植物などの生き物をも私たちの一員として配慮して、行動を決めていかなければならないこと。

③ 有限な地球環境のもとで人類が生きてゆくための、新しい倫理が必要であるということ。

世代間倫理の行方

筆者の論点には、「責任」と「倫理」という視点が常に垣間見えます。

現在という時代を生きている人類は、将来世代の人類の生に対しても「責任」を持っているという主張です。

だから、将来の世代の人類のために、現在の我々は、欲望と自由とを制限されなければならないとする考え方です。

あえていえば、ここにあえて反論を示す余地があります。

つまり、将来の世代に対して、どの範囲までを考慮すればいいのかという論点は、かなり立場の違いを明確にするのです。

本当に我々は、無限の将来の人間にまで倫理感を持ち続けなければならないのか。

そこまでの生活をもしするとしたら、現在の生活レベルを格段に落とす以外に方法はないのかもしれません。

世代間の倫理を追求し続けると、全ての開発が凍結される運命になりかねないのです。

このテーマを突き詰めていくと、現在の社会の貧困も全て扱わなければなりません。

わかりやすくいえば、南北問題もあります。

あるいは地域紛争があるかもしれません。

あらゆるテーマが俎上にのぼってくる可能性があるのです。

geralt / Pixabay

国益や宗教といった問題も、将来の世代の人類のためにとなれば、容易な方法では埒が開きません。

それほどに倫理学の問題は複雑で、仕分けが容易ではないのです。

ここでは資源、エネルギーの問題に特化しているので、その点だけに着目した方が、むしろまとめやすいでしょう。

率直なところ、あなたはどのように考えますか。

化石燃料をエネルギー源にしないと決めた場合、最終的には自然循環型のエネルギー以外にほぼ、可能性がなくなります。

それを十分に活用して、産業構造を維持できるのかどうか。

そこまで真剣に自分の身に引き受けて論じる必要があります。

これが答えだというものはなくてもかまいません。

ポイントは問題への限りない肉薄です。

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真剣に自己を鏡にし、倫理の問題として考えた場合の解答を示してください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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