【多文化共生社会】ホンネとタテマエの狭間で相互理解を育むことの難しさ

学び

多文化共生

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は教師の力量が試されるテーマについて考えてみましょう。

多文化の共生という一見、響きのいい内容です。

しかし言うのは簡単ですが、実際に行うのは非常に難しいのです。

なぜでしょうか。

ぼく自身、かつて国際開発教育の研究会に所属していたことがあります。

そこで学んだことは、日本の文化とは全く違う内容をどう受容していくのかということでした。

他の国の文化とどこが違うのかを比較するのは、それほど難しいことではありません。

しかしそれを受け入れて、共に生きていくのは大変です。

宗教、言葉、食習慣の違いをはじめとして、ありとあらゆる考え方の細部が違うのです。

それを理解するのは容易ではありません。

まして、違う文化の人と一緒に暮らしてみると、厄介なことが多く発生します。

少子高齢化社会を迎えている日本の大きな問題は、労働人口の減少です。

近年、技能実習生や特定技能外国人の受け入れが進んでいることはご承知の通りです。

働き手が増えることは本当にありがたいことです。

とにかく人手が足りないのです。

ところが、話はそう単純ではありません。

外国人の労働者をめぐるトラブルも多発しています。

入国管理の厳しい国

日本は入国管理が非常に厳しいことでもよく知られています。

不法滞在として扱われたスリランカ人の女性に対して、十分な医療行為が行われず死亡したという事件がありました。

休日に医師らとの連絡手段がないなど、入管局の医療体制が不十分だったのです。

現場と幹部の情報が共有されていなかったことも、公表されています。

ニュースで何度も報道されているので、映像を見た人も多いのではないでしょうか。

日本で働いている外国人労働者の環境もけっしていいとは言えません。

長時間労働、低賃金、賃金未払い、パワハラなどの報道を目にしたことがあるはずです。

技能実習生に向かってひどい言葉を浴びせたりする話も聞きます。

人権侵害のレベルに達する扱いもあるのです。

共生社会という言葉は確かにきれいです。

しかしその内側には、多くの問題が巣くっています。

日本は元々、単一民族で構成されてきた島国だけに、他の文化に対する関心は非常に強いものがあります。

しかし多様性の受容や、多文化共生への理解が不十分なケースが多いのです。

さらにいえば、外国人による組織犯罪に対する恐怖感も心の底には流れ続けています。

言葉の通じない外国人が隣の部屋に住み始めたら、あなたはどう思いますか。

多文化共生というのは理屈ではありません。

生活は、毎日のゴミ捨てから始まるのです。

緊急時の避難態勢も作り上げなければなりません。

しかし十分に言葉が通じなければ、どうしていいかわからないこともあります。

町内会の行事への参加など、細かな日々の暮らしそのものがテーマになるのです。

この問題について国際文化に詳しい相原次男氏の評論を読んでみましょう。

本質をズバリとついているだけに、その難しさを十分に感じます。

本文

「共生」という言葉は、日本人には受け入れやすい、響きのいい言葉である。

しかし、「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的違いを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」は、決して容易ではない。

外国籍の人々が日本に定住し、生活するには、国や自治体、地域住民の多様な支援なしには不可能である。

ここで大切なのは、支援の内容、方向である。

要約的に言えば、多文化共生を促し 日本社会に外国籍の人々が自立できるような支援である。

また、外国籍の人々は地域社会の構成員であるという認識に立ち、彼らを支援される「対象」としてだけではなく、地域社会を支える「主体」であるという視点からの支援が求められる。

いうまでもなく、「共生」は「同化」を意味しない。

「共生」の目的は、外国人を日本人にすることではない。

また「多文化共生」は「多文化の共生」でもない。

共に生きるのは文化ではなく、あくまでも文化の担い手である人間である。

文化は通常、固定した概念で捉えられがちであるが、状況により変容しうるという理解が重要である。

例えば、外国籍の人々が日本の文化のある側面に影響を受け、次第に母国の文化でも日本の文化でもない、独自の文化を築くことはある。

また、外国籍の人々の発想や考え方、美意識や規範意識などに影響を受け、日本の文化それ自体が 次第に変容していくケースも稀ではない。

このように考えると、日本人の観点に立った共生の考え方の見直しが迫られる。

外国人問題のほとんどは、日本人(側)の問題であると言われる。

多文化共生の狙いの一つは、外国籍の人々が抱える問題を日本人(側)が自らの課題であると捉え、自らを変容し、ともに解決していく姿勢に立つこと、

さらにいえば、日本人(側)が共生のための枠組みを決めてしまうやり方でなく、非対称である日本人と外国人の関係を転換し、ふだんからの相互の認め合い、働き合い、学び合いを通して、日本人(側)の社会を少しずつ変えていくことにある。

相手を理解する努力

多文化共生のために最も必要なのは何か。

それは積極的に人を理解をしようとする心です。

相手の国の文化、歴史、社会情勢、日本との関わり等について知ろうとする努力が大切なのです。

と同時に、日本という国を知ってもらおうとすることも必要でしょう。

相手がどのような歴史観、日本観を持っているのか。

基本的にここだけはおさえておかなければいけません。

アジアの国々に対しての過去の非道な行ないを、全く知らないというのでは話になりません。

外国人に日本を理解してもらうためには、日本のこともよく知ってもらわなければならないのです。

もう1つ大切なのは、外国人を支援される「対象」にしてはいけないということです。

地域社会を支える「主体」として活躍してもらうべきなのです。

rawpixel / Pixabay

この感覚が心の底にないと、両者の関係は必ずどこかで破綻します。

それはお互いにとって大変不幸です。

このテーマはよく小論文に出題されますね。

どのような形で提出されるのか、少し検証してみましょう。

試みに次のような設問を考えました。

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多文化共生の問題の具体例を2つあげ、それに対してどのような対策をとればいいと考えたか、書きなさい。

①家庭ゴミなどの一般廃棄物の取り扱い上のトラブル

②地域における生活ルールの共有における問題

③非熟練労働者としての間接雇用、賃金・労働時間、社会保険未加入などの労働環境。

④児童の日本語習得問題

⑤不就学問題。

この他にもいくつもの問題が考えられます。

異文化理解が必要とはいいながら、実際の暮らしの中では細かなトラブルが次々と起こります。

その時に目の前の難問をどう解決していくのか。

あなた自身がホンネと覚悟を試されているワケなのです。

それを正直に書いていくことが、小論文の評価を決めるのではないでしょうか。

実際に文章をまとめてみましょう。

あなた自身の問題にきちんと向き合わなければいけません。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


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