「岩橋の契り・俊頼髄脳」修験者の途方もない願い「葛城から金峰山へ橋を」

役の行者と一言主の神

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回はスケールの大きな神通力の話をします。

あなたは役(えん)の行者という人の存在を知っていますか。

白鳳時代の山岳修行者で、奈良を中心に活動した人です。

修験道の開祖として山伏たちに崇められています。

葛城山に住んで修行し、吉野の金峰山を開きました。

ある時、役の行者が葛城山と吉野山の間に岩の橋を架けるよう一言主(ひとことぬし)に依頼したことがありました。

一言主というのは葛城山に住むという女神です。

このあたりから、少し話が神話めいてきますね。

一言主は悪事も善事も一言で言い放ち、願いを叶えてくれる神として知られていました。

それにしても、役の行者はなぜそんなことを頼んだのか。

この話を理解するためには最初に葛城山と吉野山がどこにあるのか、その位置関係をきちんと頭の中にいれておく必要があります。

葛城山は奈良県御所市と大阪府南河内郡との境に位置する小高い山です。

一方の吉野山は奈良県の中央部から大峰山脈へと南北に続く尾根続きの山稜の総称です。

有名な金峯山寺を中心とした社寺が、点在する桜の名所として知られています。

この2つの山に橋を架けるなどということがいかに途方もないことなのかがわかると、この話の面白さが見えてきます。

それを受けた一言主は、夜の間だけならばやろうと承諾しました。

ところが夜にほんの少しだけ橋をつくりかけただけでやめてしまったのです。

役の行者は怒りました。

ついに護法に命じ一言主を葛のつるで縛ってしまったのです。

神様は大きな岩となり、葛にからみつかれたままになりました。

この話は歌論書『俊頼髄脳』に出てきます。

作者は源俊頼。

成立は平安時代後期、11世紀初頭と言われています。

時の関白、藤原実実(ただざね)が娘のために、和歌の手引書として著しました。

和歌の略史、種類、効用、技法などを細かく説き、説話なども多く収録されています。

話のポイントは最初の歌です。

なぜ一言主の神は、夜だけしか橋を架けようとしなかったのか。

その理由がなんと、容貌が醜いので昼間にもし橋を架けたりしていたら、見る人が怖れこわがるからというのです。

本文

岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城の神

この歌は、葛城の山、吉野山とのはざまの、はるかなる程をめぐれば、事のわづらひのあれば、役(えん)の行者といへる修行者の、この山の峰よりかの吉野山の峰に橋を渡したらば、事のわづらひなく人は通ひなむとて、その所におはする一言主と申す神に祈り申しけるやうは、神の神通は、仏に劣ること無し。

凡夫のえせぬことをするを、神力とせり。

願はくは、この葛城の山のいただきより、かの吉野山のいただきまで、岩をもちて橋を渡し給へ。

この願ひをかたじけなくも受け給はば、たふるにしたがひて法施をたてまつらむと申しければ、空に声ありて、我この事を受けつ。

あひかまへて渡すべし。

ただし、我がかたち醜くして、見る人おぢ恐りをなす。

夜な夜な渡さむとのたまへり。

願はくは、すみやかに渡し給へとて、心経をよみて祈り申ししに、その夜のうちに少し渡して、昼渡さず。

役の行者それを見ておほきに怒りて、しからば護法、この神を縛り給へと申す。

護法たちまちに、葛をもちて神を縛りつ。

その神おほきなる巌にて見え給ば、葛のまつはれて、掛け袋などに物を入れたるやうに、カひまはざまもなくまつはれて、今はおはすなり。

現代語訳

岩橋(いわばし)の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城(かつらぎ)の神

葛城の神が夜に岩の橋を架けようと言った約束が途中で絶えたように、(あなたが明るくなっても帰らないのなら)、夜にかわした愛情もきっと絶えるでしょう。

私は葛城の神と同じように醜いのですから。

葛城山と吉野山の谷あいの遥かに離れた間をめぐり歩くと、とにかく難儀です。

そこで、役の行者という修行者が、

「この葛城山の峰からあの吉野山の峰に橋を渡したら、なんの苦労もなく人が行き来できるだろうと言って、その山にいらっしゃる一言主と申しあげる神にお祈り申しあげました。

神の神通力は、仏に劣ることはありません。

普通の人間が出来ないことをするのが神の力です。

できることなら、この葛城山の頂きから、あの吉野山の頂上まで、岩を使って橋を渡してください。

この願いを恐れ多くもお受けくださるなら、私の能力の限り法文をお唱えさせていただきましょう」

と申し上げたところ、空から声が聞こえてきて、

「私は、この事を引き受けた。きっと渡しましょう。

ただし、私の容貌は醜くて、見る人が恐れをなします。

だから夜な夜な渡すことにしましょう」とおっしゃいました。

「出来ることなら、すみやかに渡してください」

と言って、心経を唱えてお祈り申し上げたところ、その夜のうちに少し渡して、昼は何もしようとしないのです。

役の行者はそれを見て非常に怒り、「それなら護法の鬼神よ、この神を縛ってください」と申しあげました。

護法の鬼神はたちまち葛で神を縛ったのです。

その神は大きな巌のようにお見えになったので、葛がまつわれて、今では掛け袋などに物を入れたように、仏力が隙間無く絡みついているのだということです。

葛城の神もしばし

冒頭の和歌はある女房が詠んだものです。

通ってくる男性に対して、私も一言主と同様に醜いので、あなたには夜が明ける前に帰ってほしいのですという意味を含んでいます。

この歌の意味を理解するためには、共通の知識として、誰もが葛城の神のことを知っていなければなりません。

一言主の神は葛城山に住んでいたので、葛城の神と呼ばれていたのです。

醜い容貌の女神であったことがよく知られています。

『枕草子』にも清少納言が中宮定子のところへ出仕した時、緊張しきって早く退出したがったことがありました。

その時定子は「葛城の神もしばし」と声をかけたことが綴られています。

「あなたは葛城の神ではないのだから、もう少しここにいてくださいね」という意味です。

清少納言が醜いという意味ではなく、彼女が夜間だけしか出仕していなかったので、このように少しからかったと言われています。

平安時代の人たちにとって、葛城の神の話はごく常識であったことがよくわかります。

じつはこの話には後日談があります。

役の行者に苦しめられた一言主は行者が謀反を企んでいると天皇に訴えました。

母親を人質に取られた役の行者は、朝廷によって捕まえられ、伊豆の大島に流されたといわれています。

言い伝えによると、毎晩海上を歩いて富士山に登っていたとか。

その結果、橋は架けられずに終わってしまいました。

なぜ、役の行者は葛城山と金峯山に橋を架けようとしたのか。

それは行者の一族がこの周辺に住んでいたためと言われています。

同族への愛情からと考えればいいのかもしれません。

全体にスケールの大きな話だと思いませんか。

ほとんど神話に近いのです。

吉野は桜の季節が最も美しいですね。

金峯山寺の秘仏もこの時期には開帳されます。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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