
疎開
昭和十九年、戦争は次第にその苛烈さを増していた。
毎日のように鳴り響く空襲警報。東京への爆撃が開始されたのもこの年の十一月であった。
金子光晴はこの年の暮れ、山梨県山中湖畔に疎開した。
当時を回想して彼はこう書いている。
「十二月はじめ頃に、すでに雪にとざされた平野村の家にたどり着いた。
どこもかしこも白々とした景色だった。
落葉松の林の中に安い借家普請のような、その別荘と称する家もたっていた」
平野は石割山の裾にある日本有数の避暑地である。
最近ではテニスコート付きの民宿がたくさん立ち並び、ラケットを持った若い男女の姿をよく見かけるようになった。
湖畔の家
しかし当時の湖には戦争のきな臭い匂いがつよく漂っていた。
金子は戦時中、この湖畔の家でひっそりと毎日を過ごした。
零下二十度の寒さはインクを凍らせ、掛け布団は吐く息で白くなったという。
発表すればすぐに特高にひっぱられてしまうような激しい反戦詩を書く一方で、彼は山中湖の自然そのものの美しさに目を見開いていった。
戦争は彼に人間と自然との関わりを考えさせる契機ともなったのである。
僕は、目を閉ぢて、そつと
のがれてきた
指先までまつ青に染みとほる
このみずうみの畔に
湖畔の風物は
嶮しい結晶体だ
つめたい石質のなかに湧立つ
若やぎ。
光晴はいつも朝はやく起きた。
雨戸を思い切り開けると、富士の姿が目の前にくっきりとせまってくる。
美しい斜面の両肩には小御岳と宝永山が見てとれた。
どうしてこんなに隙のない山なのか。
落葉松の林
詩人はむしろ苛立ちに近いものを覚えたに違いない。
彼は弱いもの、崩れゆくものに愛着を感じていたのである。
それにしても富士のなんと雄大なことか。
落葉松の林を歩きながら、金子は途方に暮れることがあった。
頭上を時々かすめるように通る飛行機は、全て東京をめざして飛んでいく。
その彼方に起こる悲劇。廃墟となった都市の姿が彼には見えただろう。
しかし山中湖の自然はあまりにも静かで落ち着いていた。
平野には武田信玄の祈願所だった寿徳禅寺がある。
光晴は時折気まぐれに山門を訪れた。
湖面の色
また気分の晴れない日、彼は湖面に自分の姿をうつして遊んだ。
晩秋から春にかけての湖は、ほとんど静止したように動きをとめている。
石を一つ二つ投げると、水面を波紋が這うように拡がっていった。
金子は反戦をめざして詩を書いたのではない。
むしろ彼は愛をうたいたかった。
だが国家の力は息子までを兵役と称して、唐突に連れ去ってしまう。
平野から足をのばして長池に出てみた。
山中湖を眼下に一望しながら、富士の姿をみているうちに、言葉が妙にとぎれていくのを感じる。
太陽の光が雲間を抜けて流れ去るたびに、湖面の色が次々と変化した。
薄い緑から淡い青へ、そしてやや赤みがかった灰色へと。
詩人の疎開した家はもうない。
時は否応もなく過ぎてしまう。
梢の中から鳥が一羽飛び立っていったような気がした。


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