マルグリッド・デュラスの小説を読んだことがありますか「愛人」

essay

愛人「ラマン」

久しぶりにマルグリッド・デュラスの小説を読みました。
1992年、『愛人』という小説でゴンクール賞をとったフランスの女性作家です。
絶頂の頃の人気はすごかったですね。
ベトナムが舞台の実にけだるい小説でした。
1920年代。フランス領下の国に暮らす貧しいフランス人の少女が主人公です。
彼女の自伝といってもいいでしょう。
富豪の中国人の青年と出会ったことで、大金を手にします。
それからの暮らしは倦怠感にあふれたものでした。
青年の愛人になった少女の心の変化を表現した小説です。
映画も見ました。
ぼく自身、大学時代にフランス語をとっていたのです。
授業でも彼女の小説を読みました。
『辻公園』というのがそのタイトルでした。

ヌーヴォー・ロマン

あの頃はヌーヴォー・ロマンが全盛でした。
直訳すれば、新しい小説です。
彼女も感性に訴える時代の流れの中にいました。
ロブ・グリエ、ナタリー・サロート、クロード・シモンなどという作家の名前を聞いたことがありますか。
久しぶりにデュラスを読んだ理由は、ちょっと読んだ村上香住子さんの本『パリに生きて』の中に、彼女とのインタビューが不調に終わったという件があったことを思い出したからです。
デュラス本人に会いたかった村上さんは何度か接触を試みたそうです。
当時、「マガジンハウス」という雑誌のパリ支局長をしていたので、なんとか記事をものにしたいという気持ちもあったのでしょう。

結局うまくいかず、その後デュラスは亡くなってしまいます。
しばらくして彼女の最後の恋人ヤン・アンドレアのインタビューをしたという話に興味を持ちました。
彼女はその財産を恋人には一銭も残さず、全て子供にあげたなどという話も後日談として残っています。

『モデラート・カンタービレ』は大人の小説です。
倦怠感をあぶり出す方法として、少年がいたり、殺人が描かれています。
しかし人間の生に伴う倦怠が、ここまであからさまに書かれてしまうと、もう何もいえないですね。
そういう意味ではカミュの『異邦人』を彷彿とさせます。
しかし読後感は悪くありません。
作家の感性は、恐るべきものです。

フランス人は何を話しているのか

このところ、このテーマを考えていました。
というのもパリの街角に行ったりすると、朝から晩まで、彼らは同じカフェに陣取り、それこそずっとお喋りをしているのです。
コーヒーカップを目の前に置いただけで、ずっと話をしているのです。
最初に見かけたときは本当に驚きました。
日本人同士の風景でよく見るのが、お互いに漫画を読んでいるとか、携帯をしきりにいじっているとかというのはよくあります。
なんにも喋らずにぼおっとしているのも見かけます。
あるいはメールを打ったり。
どうもイメージがよくないのです。

それに比べると、とにかくフランス人はよく語り合っています。
その姿は絶景です。
今度誰かに会ったら、是非訊いてみたいですね。
デュラスの『辻公園』という掌編にも言葉を交わして語り合うシーンがたくさん出てきます。
無名の人たちが、その日を生き延びるために語らいあうのです。
孤独を免れるための行為、それが公園での他愛ない会話です。
日々の暮らしをただ話す。
それが生きていくための原動力なのです。
取るに足らないアイデンティティを延命させるための装置とでもいえるのでしょうか。
飢え死にせず、毎晩屋根の下で眠るために。
辻公園に群れる労働者を描くことで作者は何を訴えたかったのか。

会話力のアップ

次回の渡仏までになんとかフランス語の会話力を飛躍的にアップしたいものです。
ここだけの話ですがその昔、アテネフランセに通いました。
日仏学院の通信添削もしました。
前任校でフランス語を教えていたG先生はいつもぼくの顔をみると、話しかけてくれたのです。
英語を使わずにお喋りをするというのは大変なことです。
彼の話す響きの美しさは筆舌に尽くしがたいものがありました。
あの音韻はなんとも特殊な世界のそれですね。

彼らが通りに面したカフェの片隅で何を話しているのかを知りたいという究極の目的のために、ぼくのフランス語学習熱は再び、熱くなっています。
人生は単純なことの積み重ねなのです。
これでも結構真剣です。
デュラスの小説が持っている倦怠感は、伝染します。
それだけはご注意を。

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