
実りの季節
花巻は実りの季節を迎えていた。
稲の穂が一面黄金色に輝いて、吹く風に頭をたれている。
北上川にそって旅をしていると、宮沢賢治の世界が流域の風景と強く響きあい、重なり合っているのを感ずる。
遠くに早池峰山系の山々、広々と続く平野、そしてやさしく吹き渡る風。
民話の故郷は同時に一人の詩人を生み出す風土でもあった。
宮沢賢治が生まれたのは明治二十九年。
生前は一部の人々に知られるだけの農村詩人であった。
盛岡高等農林学校時代の彼は特待生にもなった優秀な生徒で、つねに級長をつとめていたという。
同人雑誌に短歌を寄稿したり、短編を書いたりする一方で、農業に対する研究にも人一倍力をいれた。
妹トシ
賢治の背後には東北の苛酷な自然に生きる農民たちがいたのである。
毎年のように続く冷害、水害、旱魃。
彼の脳裡から農村の疲れ切った姿が消え去ることはなかった。
そのうえ、大正十二年に最愛の妹トシを亡くしたことは賢治の一生に大きな影を落とした。
彼女は兄の詩や短歌を誰よりも深く愛し、理解していたのである。
臨終にあたってトシは力なくこういった。
うまれでくるたて、こんどはこたにわりやのこどばかりでくるしまなあよにうまれてくる。
おらおらでしとりえぐも……
もう苦しみたくない、先に一人でいきます、と病床でじっと兄の目をみつめながらつぶやく妹に、賢治のしてやれることは何もなかった。
大正十三年に出版された詩集『春と修羅』の中には彼の複雑な内面が描き出されている。
四月の気層のひかりの底を唾(つばき)し
はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
修羅という表現
「修羅」という表現ほど、賢治のおかれていた立場を明らかにするものはない。父と喧嘩してまで彼は法華経の信仰に命をかけた。
だがともに最後まで祈ることを忘れなかった妹は既にいない。
賢治は心底寂しかった。
とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きっとおまへをおもひだす
大正十五年、六年間も続けた農学校の教師をやめた彼は、自ら畑作りを始めるかたわら、「羅須地人協会」をつくった。
農民の生活の向上を願って、農具の改良や肥料の設計を行い、農閑期には近くの子供たちに自作の童話を読んできかせた。
この協会の建物は現在復元されて、花巻農業高校の傍らに移築されている。
秋の抜けるような空にはえて、どっしりと量感のある造りであった。
玄関横には当時の彼の筆跡をまねて、
下ノ畑ニ居リマス 賢治
と白墨で書かれた黒板が打ち付けてあった。
イーハトーヴォ
今にも賢治自身がつっかけでもはいて出てきそうな予感がする。
彼は終生、岩手の地にイーハトーヴォ(理想郷)をみようとした。
しかし夢はつねに挫折をともなう。
死後に発見された詩「雨ニモマケズ」の中には賢治のたどり着いた心境があふれている。
慾ハナク、決シテイカラズ、イツモシズカニワラッテイル……
高村光太郎の揮毫になるその詩碑を見ているうち、「ゆっくり休んでんじゃい」と最後に声をかけたという母親の気持がわかるような気がした。
昭和八年、宮沢賢治は愛する故郷の土に帰った。
三十七年の短い生涯であった。


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