伊良子清白
伊良子清白の故郷は鳥取である。
しかし実母をはやく失った彼は、父の再婚、転任に伴い十歳の年に三重県の津に移り住んだ。
故郷との縁はとても薄かったとしか言いようがない。
三重の海はのどかであたたかい。
幼い頃の鳥取での生活に比べて、何もかもが明るかった。
伊勢の自然が清白の詩をつくりあげたといっても過言ではない。
温暖な気候、風土が少年であった彼によくなじんだのであろう。
安乗
安乗は的矢湾に面した岬の突端にある小さな町だ。
近くには真珠の養殖で有名な英虞湾もある。
志摩半島の鵜方からバスで入っていくと、国府まではゆるやかな丘陵地帯を抜けていく。それだけに広々とした明るい海が見えた時の解放感は何とも言えない。
清白がこの地を旅したのは、まだ京都府立医学校に通っていた時分のことだった。
志摩の果安乗の小村
早手風岩をとよもし
柳道木々を根こじて
虚空とぶ断れの細葉
伊良子清白、本名暉造は明治十年十月美作藩の典医の家に生まれた。
彼も医師になるべく運命づけられていたのである。
だが清白は生来の文学好きであった。
医学の勉強をしながらも詩のことが頭から離れなかった。
明治三十三年、父の猛反対をおしきって上京した彼は、その頃発足した新詩社の同人となり、創刊されたばかりの『明星』の編集にも参加した。
清白は詩神にとりつかれていたのである。
ドイツへの憧れ
シラー、ハイネ、ウィーラントの訳詩、ドイツへの憧れ。文学への熱情はとどまるところを知らなかった。
処女詩集『孔雀船』は三十歳の時、完成した。
訳百五十篇ほどの詩の中から、十八篇だけを厳選し、日本語の美そのものを表現しようと試みた。
しかし彼の詩は自然主義文学全盛の時代に全くそぐわないものであった。
その年、清白は島根の病院に副院長として招かれ、生計のためいわば町医者としての生活に入る。
彼の心の内側にはおそらく苦い思いが渦巻いていたことであろう。
だがそれも日々の営みが次第に癒してくれた。
朝はやく起きると小鳥の声が聞こえてくる。
昼の暑い時間にはよく眠った。
夜更けに起こされて往診をすることもよくあった。
彼はむしろそういう生活の中に自分を投げ込んでいったのである。
志摩の自然
清白が懐かしい志摩の自然に戻ったのは四十五歳の時であった。
鳥羽町小浜。
小さな漁村である。
海女達が真っ赤に焼けた肌をみせて病院の前を通り過ぎていく。
彼女たちは快活に大きな声でよく笑った。また伊勢エビやアワビはことのほかうまかった。
若い頃親しんだ風土は、何ともいえない親近感を彼に与えた。
幼い子供が磯辺であそんでいるのを見かけるたびに、清白は思わず目を細めて見入ってしまう。
荒壁の小家一村
反響する心と心
稚子ひとり恐怖をしらず
ほほえみて海に対へり
清白の住んでいた診療所は本当に粗末なつくりだった。
彼はその家の二階に一人坐って、遠い伊良湖岬や神島をよく眺めていたという。
遙かな水平線の彼方に詩人が見たものは何であったのか。
それを今知るすべはない。


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