【安元の大火・方丈記】都の大半が燃え焼死者数千人を数えた未曽有の災害

安元の大火

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は火事の記事を読みましょう。

『方丈記』は災害の報告に満ちています。

無常観に覆われたその文章を読んでいると、現在となにもかわらないという実感がわいてきます。

今年は最初から能登半島地震にみまわれ、それが収束しないうちに、再び地震、台風、水害などに見舞われました。

中世と何もかわっていないのです。

安元の大火では都の三分の一が燃えたとあります。

焼死者が数千人に及んだそうです。

養和の飢饉では数万人規模の死者だったとか。

さすがに現代ではそこまでの死者を数えることはありません。

しかしパレスチナの戦争のニュースをみていると、これが同じ地球で起こっていることなのかと思うくらい、ひどい状態です。

それを誰もがとめられないという現実を、どう受け止めたらいいのか。

人々に世の無常を感じさせるのに、十分な情報ばかりが跋扈しています。

かつては現世をもう信じられなくなった人が、たくさんいたのでしょうね。

彼らは出家したり、山野に隠れ住んだりしたに違いありません。

今のように世界中で起こっていることを、瞬時に知ることが幸せだとは、とても考えられません。

方丈記は無常に美を見いだそうとする新しい考え方に満ちています。

何がそれほどまで、人々を惹きつけたのか。

災害の記述もたくさん掲載されています。

後半は無常の世の中をどう生きていくのかという方法についても、論じています。

『方丈記』は長い作品だと勘違いしている人も多いです。

しかし文庫本でわずか50ページもありません。

ごく短いエッセイなのです。

本文

予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見る事、ややたびたびになりぬ。

去(い)にし、安元三年四月廿八日かとよ。

風はげしく吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時ばかり、都の辰巳(たつみ)より火出いで来て、戌亥(いぬい)にいたる。

はてには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。

火元は樋口富(ひぐちとみ)の小路とかや。

舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。

吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、末広になりぬ。

遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。

空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、

風にたへず吹き切られたる焔、飛ぶがごとくして、一二町を越えつつ移りゆく。

その中の人、うつし心あらむや。或いは煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ。

或は身ひとつ、からうじてのがるるも、資財を取り出いづるに及ばず。

七珍万宝、さながら灰燼となりにき。

その費え、いくそばくぞ。

のたび、公卿の家、十六焼けたり。

まして、その外、数へ知るに及ばず。

すべて、都のうち、三分が一に及べりとぞ。

男女死ぬるもの、数十人、馬牛のたぐひ、辺際を知らず。

人のいとなみ、みな愚かなる中に、さしも危ふき京中の家をつくるとて、財を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。

現代語訳

物事の道理をわきまえるようになってから、40年余りの年月を過ごしてきました。

その間に、この世の常識では考えられないような出来事を目にすることが、何度か繰り返し起こったのです。

去る、安元3年(1177年)4月28日のことでした。

風が激しく吹いて、静まらなかった夜、午後8時ごろに、都の東南の方から火が出て、西北の方まで広がっていきました。

しまいには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにまで火が燃え移り、一夜のうちに灰となってしまったのです。

火元はどうも樋口富の小路とかいうことでした。

舞人を泊めていた仮屋から火が出たという噂です。

吹き荒れる風であちこちと燃え移っていくうちに、扇を広げたかのように末広がりに燃え移っていきました。

炎から遠い家は煙にむせび、近いところはひたすら炎が地面に吹きつけています。

空には灰が吹き上げられ、火の光を反射して夜空一面が真っ赤に染まりました。

風の勢いで吹きちぎられた炎が、飛ぶようにして、1~2町を越えて燃え移っていったのです。

火事に巻き込まれた人は、生きた心地がしなかったに違いありません。

ある人は煙にむせて倒れてしまい、ある人は炎で目がくらんでたちまちに死んでしまいました。

身一つで、命からがら逃れた人も、家財を持ち出すことまではできませんでした。

By: Takashi .M

貴重な財宝が、すべて灰と化してしまったのです。

その被害額は、いったいどれほどになったのでしょうか。

その時の火災で、公卿たちの家は16軒も焼失しました。

ましてや、その他の家屋の数などは、数えることもできない状態です。

全体としては、都の3分の1にも及んだといいます。

亡くなった人の数は数十人。

馬や牛などは、数えることなどできません。

人の行いは何から何までなんと愚かなことばかりなのでしょうか。

なかでも、あれほど危うい都のうちに家を建てようと、財産をつぎ込み、

あれこれ苦心することは、この上なくつまらないことだとしみじみ思います。

高松院の存在

安元の大火が起こる前の年、安元2(1176)年に高松院という女性が亡くなりました。

長明よりも12歳ほど年上の人です。

亡くなる前の年、高松院の御所で開催された歌合に、長明は次の歌を提出しようとしました。

人知れぬ涙の河の瀬を早み崩れにけりな人目つつみは

「人に知られないように流していた涙が川となり、瀬の流れがはやいので堤が崩れてしまった」という歌の意味です。

高松院は二条天皇の中宮でした。

しかし彼がひそかに恋心を抱いていたのは、間違いありません。

「崩れ」という言葉が「死」を連想させるというので、師にとめられたという話です。

高松院は36歳という若さで亡くなりました

まさに「崩れ」る予兆に満ちていたのです。

ところで安元の大火の1ヶ月後には、後白河院側の近臣による平氏打倒計画が表面化しました。

「鹿ヶ谷の変」と呼ばれている大事件です。

平氏の治世に乱の予感がありました。

安元の大火の1年後には再び都が炎上します。

やがて平氏は都から去り、7年後の元暦2年(1185)には壇ノ浦の合戦が起こりました。

ついに平氏は滅亡してしまったのです。

まさに無常を絵に描いたような歴史絵巻です。

鴨長明がどのような気持ちで日々を過ごしていたのか。

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それを想像するだけで、やるせなくなりますね。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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