「貧困概念・社会的排除」自己のアイデンティティを見失う危機が身近に

小論文

社会的排除

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は近年、ヨーロッパで主流になりつつある「社会的排除」という概念について考えてみます。

一般的な貧困の概念をより深く捉えたものです。

あなたはこの表現を耳にしたことがありますか。

「社会的排除」とは人が社会の仕組みから脱落し、人間関係を築けずに社会的な意味を失っていくことを意味します。

人間は複雑な生き物です。

食べて飲んで寝るという、ごく生物的な「生」を全うするだけでは満足できません。

人間は仕事だけでなく、地域のコミュニティなど、幾重にも張り巡らされた社会の中に、自己のアイデンティティを見出して生きているのです。

自分がどのような社会の中で、どういう意味を持ち得ているのか。

今の「生」にはどれだけの重みがあるのか。

それを日々、検証しています。

その確認がスムーズにできなくなると、ある意味、「人間」ではなくなってしまうのです。

ではどのようにして、人は自分を見出そうとしているのでしょうか。

そのための磁場が「社会」なのです。

自分を社会という座標の上に置き、そこから位置づける。

それを実現するための最初の入り口が「社会的雇用」だと考えることもできます。

他者とつながり、自分の存在意義をみつけることの大切さは、言葉ではあらわせないものです。

どんな人間にとっても、「社会」は第一義的な生命線です。

雇用のあり方

雇用の問題は深刻です。

労働をし、賃金を得ることによって、社会の中での自分の立ち位置を知るのが通常のステップです。

その労働が、他者にとってどういう意味を持つのかを認識することができるからです。

労働の価値については、さまざまな指標があります。

労働時間、賃金、社会的貢献度、希少性…。

そのためのパラメーターはほぼ無限にあります。

例えば、あなたがある会社に雇用されたとします。

新入社員の時代を経て、トレーニング期間が終了すると、やがて他者と同等の勤務が可能になります。

それに見合う賃金を得ることによって、自分の存在意義を知るのです。

経済活動が好調なときは、自分の時間がもっと欲しいなどという理由から、やがてフリーに転職することも可能でしょう。

あるいは自分で起業することもできます。

主体的に選び取っていく、こういうパターンは特に問題がないのです。

しかし、就職活動がうまくいかず、非正規のまま時が過ぎてしまう場合もあります。

この場合は深刻です。

むしろこのタイプが圧倒的に多いのではないでしょうか。

かつては非正規でも、それなりの暮らしができた時代もありました。

ところが近年のように、物価があがり、賃金が思うように手に入らないとなると、話が違ってきます。

高齢化社会の波が押し寄せ、老後の不安も増します。

社会保険がきちんとし、年金が確実に得られる正規の就職をしたいという人が飛躍的に多くなるのは当然のことです。

生活が日を追って苦しくなればなるほど、非正規で働くことの重圧感は増す一方です。

それと同時に自分が社会の中でどのような意味を持ち得ているのかを、見失いがちになってしまうことにもなるのです。

交換可能な部品

一言でいえば、仕事の内容が複雑になるわけではなく、つねに交換可能な部品としての意味しか持ちえないということに対する非正規労働者の焦りが発生するのです。

キャリアを積み重ね、社会に対しての貢献を果たしたいとする人にとっては、苦しい状況がどこまでも続きます。

これが最近よく耳にする「社会的排除」という表現です。

自分が生きていく場面を肯定的に捉えることができなくなり、極端にいえば「生きる意味」を失っていくことを意味します。

貧困の根本的な問題を考えていくとき、ヨーロッパの構図がよく参考として取り上げられます。

ヨーロッパには、大学までの学費が無償な国も多いですね。

とはいえ、大学にいかない人が多くいる実態もあります。

多様な選択肢が社会に用意されているから、自分の意志で自由に選ぶことができるのです。

その一方で、日本はどうでしょう。

大卒資格がないと有利な就職ができないという現実があります。

そのために、貧困から抜け出すには、どうしても進学したいという気持ちが強くなります。

仕方なく、返済義務のある奨学金を借りなければならないのです。

現実的にそれ以外の選択肢がないのです。

社会的排除は「非正規」での労働環境が作り上げてしまうという構図を、どうしても捉え直さなければ理解できません。

阿部彩著『弱者の居場所がない社会』の中に高い問題意識の文章がありました.

筆者は他分野との連携をめざし、「貧困学」の確立をめざしている社会学者です。

非正規雇用の拡大は、ワーキングプアの増加を促します。

彼らの生活を危機的な状況にしているという問題意識で語られることが多いのです。

ところが同様に問題なのは、それらの就労が、人々がそこから自分の存在価値を見出しえないところにあります。

自分の「役割」「出番」として自負できるようなものではないのです。

その背景には何があるのでしょうか。

以下に取り上げるのは、数年前にある国立大学の小論文試験に出た課題文です。

課題文

「居場所」というものは、人にとって、どれほどかけがえのないものだろうか。

私たちは、みな、自宅であったり、会社の自分の机であったりと、何らかの「居場所」をもっている。

そこに自分がいることが当然であり、周りもそう認めている場所がある。

人によっては、行きつけの店や、趣味やボランティア活動の事務所などの「居場所」を持つ人もいるであろう。

そういう「居場所」を持つことが、私たちにとっていかに重要なことなのか。

「居場所」がないこと、安心して休める場所がないこと、「そこにいてもよい」と社会から認められている場所がないこと。

「居場所」は単に雨や風をしのげるといった物理的な意味だけで重要なのてはない。

「居場所」は、社会の中での存在が認められることを示す第一歩なのである。

社会を学校の教室にてたとえれば、そこに、自分の椅子と机がある。

それと同じことである。

社会的排除の萌芽は誰でも抱えている。

会社や家族といった「包摂」のサークルは、意外と脆い。

おカネに困ったとき、病気になったとき、東日本大震災のような災害にあったときなど、本当に必要なときに手を差し伸べてくれる人を、私たちはどれほど持っているであろうか。

持っていたとしても、差し伸べられた「手」は「会社」や「学校」、そして「家族」など、あるグループに所属しているというメンバーシップを前提としているのではないだろうか。

設問

この文章に対する設問は次のようなものです。

現代社会では、経済的格差や社会的孤立の広がりの中で、様々な形で社会的に排除された人々が生み出されている。

そこで地域社会において実際に生じている社会的排除の事例をひとつ取り上げるとともに、その問題の克服に向けて求められる社会的包摂のあり方について800字以内で論じなさい。

包摂という言葉の意味がわかりますか。

社会や組織があらゆる人々を受け入れ、差別や排除をなくし、全ての人が平等に参加できる状態を追求する考え方です。

その重要性は、SDGs(持続可能な開発目標)の実現ともリンクしています。

あなたの身近にある具体的事例を考えてみましよう

差別や排除があるとしたら、それはどこにありますか。

卑近な例を探るのです。

例えば、交通インフラの排除です。

バス、電車がない地域に住んでいる場合、買い物、医療機関への受診をどう確保するのか。

あるいは地域に高等教育の場がない場合、すでに社会から半ばはじかれてしまっています。

遠くの学校へ通うためには、途方もない費用が発生します。

事実上、不可能なのです。

そのために貸与式の奨学金を借りれば、卒業後の返還が重圧になります。

その他にもいろいろなケースが考えらます。

怖いのは、社会的排除が極限まで達したとき、人は「場所」からも排除されるということです。

社会の中で、自分のいる「場所」がないということは、どのようなことを意味するのでしょうか。

自分の体験や見聞をもとに、ぜひ文章をまとめてみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました