「無名抄・腰の句の末の手文字」名声に甘んじていい気になっていると

和歌の腰の句

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は歌論書を読んでみましょう。

鎌倉時代前期に活躍した歌人である鴨長明が記した歌論書『無名抄』には面白い歌の話がいくつも出てきます。

和歌の腰の句(3句目)を巡る掛け合いです。

腰の句とは、上の句の終わりの5文字を指します。

腰句が折れた短歌はすなわち、下手な歌という意味になります。・

この話の登場人物は3人です。

源俊頼と藤原基俊は、ともに院政期を代表する歌人として並び称されていました。

雲居寺(うんごじ)の歌合せで2人が同席したときの話です。

源俊頼(1055~1129年)は経信の子で、金葉和歌集の撰者。

藤原基俊(1060~1142年)は万葉集の研究家です。

琳賢(~1134年頃)は同席していた和歌に詳しい僧侶でした。

ちなみにこの話に登場する「桜散る木の下風は寒からで」という和歌は『拾遺集』にある春の歌で作者は紀貫之です。

「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」がその歌です。

まさに「寒からで」の「で」がここでの話のキーポイントです。

これが腰の句の手文字そのものなのです。

手文字なんて普通は耳にすることがありませんね。

文字通り、和歌の3句目の最後の文字が「て」になる歌のことです。

いったい、それがどうしたというのでしょうか。

本文を読んでみましょう。

本文

またいはく、「雲居寺(うんごじ)の聖のもとに、秋の暮の心を、

俊頼朝臣

明けぬともなを秋風の訪づれて野辺の気色よ面変(おもがは)りすな

名を隠したりけれど、これを「さよ」と心得て、基俊いどむ人にて、難じていはく、

『いかにも、歌は腰の句の末にて、文字据ゑつるに、はかばかしきことなし。

支(ささ)へて、いみじう聞きにくきものなり』と、

口開かすべくもなく難ぜられければ、俊頼はともかくも言はれざりけり。

その座に伊勢の君、琳賢がゐたりけるなん、『異(こと)やうなる証歌こそ、一つ覚え侍れ』と言ひ出でたりければ、

『いでいで、承はらむ。よも、ことよろしき歌にはあらじ』と言ふに、

桜散る木の下風は寒からで

と、果てのて文字を長々と長めたるに、色真青(まさを)になりて、物も言はずうつぶきたりける時に、俊頼朝臣は忍びに笑はれけり」

現代語訳

また、ある人が言うには、「雲居寺の聖のところで歌合せをした時、

秋の暮れという題で、俊頼朝臣がこんな歌を詠まれました。

明けぬともなほ秋風のおとずれて野辺のけしきよ面変わりすな

夜が明けて冬になっても、やはり秋風が吹いてきて、野辺の秋の景色よ その美しさを変えてくれるな

作者名を隱してはいましたが、この歌は『その人のものに違いない(俊頼卿の歌だ)』

とすぐ気がつき、負けず嫌いで対抗心の強い基俊卿は、批判して次のように言いました。

『なんといっても和歌は、腰の句(三句)の末に、「て」という文字を置くことは、よいことではありません。

歌の流れがつかえてしまって、たいそう聞きにくいものです』と。

他人が口をはさむ余地もないほど、きっぱりと批評したので、俊頼卿はなにも言えませんでした。

ところがその座にたまたま伊勢の君僧侶の琳賢がいあわせていたのです。

『愚僧は少し変わった引き歌を突然思い出しましたのですが』

と言い出したので、基俊卿は『さようですか、それはどのようなものですか。さっそくうかがいましょう。

まさか取り柄のある歌などではありますまい』と言った矢先のことです。

琳賢は「桜散る木の下風は寒からで」(紀貫之の歌)と口にし、末の「て」の部分を長々と声を伸ばして詠じたのです。

その瞬間、基俊卿の顔色が真っ青になり、物も言わずにうつむいてしまいました。

俊頼卿は声を忍んで笑った」ということです。

反証の確かさ

この話を読んでいると、いつの時代にも人との関係は難しいということがよくわかります。

いいかげんな知識を振り回すと、ひどい結果を招くこともありますね。

源俊頼と藤原基俊は、ともに院政期を代表する歌人です。

両雄並び立たずといいますが、実力を並び称されていたことがポイントです。

とくに基俊という人は、自由な詠みぶりの俊頼を少し小馬鹿にしているところがありました。

もう1つの核心は叡山の僧、琳賢が基俊と仲があまりよくなかったという点にあります。

俊頼の歌は次のようなものです。

明けぬともなほ秋風のおとづれて野べのけしきよ面変(おもがは)りすな」

この歌の腰の句の終わりにある「て文字」が歌のリズムを悪くしていると批判したのです

『無名抄』には次のような記述があります。

「口開かすべくもなく難ぜられければ、俊頼はともかくもいはれざりけり」

同席者の誰もが何も言えなかった様子がよくわかります。

基俊は当時、歌人の重鎮でした。

実力者だったのです。

その人に向かって、表立って批判することなどは不可能だったのでしょう。

そこに登場したのが僧侶の琳賢です。

彼はその場で反証を示しました。

どうせたいした歌ではないだろうと侮った態度をとった基俊に、次の歌を披露しました。

「桜散る木の下風は寒からで」と読み上げたのです。

紀貫之の代表的な歌です。

桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける

琳賢は、紀貫之の作品の中から、腰の句の結びに「て文字」を使った歌をサンプルに示しました。

さらに読み上げる時、「で」の文字を長く伸ばしました。

途端に青ざめたのは基俊です。

歌の道では神のように言われていた貫之の、歌の中にあった歌がまさに「て」を使ったものだったからです。

腰の句の「て」は他にないわけではありませんでした。

うつむいた基俊を見て、俊頼はこっそり笑いました。

してやったりというところでしょうか。

反証のレベルが高いですね。

人間、地位に甘んじていい気になっていると、思わぬところで馬脚をあらわし、失態を招くことがあります。

今も昔も、人の世を生きることの難しさをしみじみと感じさせる話です。

この話を読んでから、腰の句に「て」を使っている歌を少し探してみました。

『百人一首』が一番手っ取り早いので、検索してみた次第です。

目についたのは次のような歌です。

他にもあるかもしれません。

あはれとも言ふべき人は思ほえ身のいたづらになりぬべきかな

夕されば門田の稲葉おとづれあしのまろ屋に秋風ぞ吹く

ちぎりおきしさせもが露を命にあはれ今年の秋もいぬめり

夜もすがらもの思ふ頃は明けやらねやのひまさへつれなかりけり

み吉野の山の秋風さ夜ふけふるさと寒くころも打つなり

花さそふ嵐の庭の雪ならふりゆくものはわが身なりけり

「で」は実に便利な言葉なのです。

格助詞と接続助詞にわかれます。

特に接続助詞は動詞につながり、「~しないで」「~ず」の逆説的な意味になります。

いくつも出てくる「で」は否定的な意味を示すときに大変便利なのです。

それだけ、目につくのかもしれません。

源基俊は少しいい気になりすぎましたね。

他山の石としたい教訓にもなる話だと思います。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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