喜劇と悲劇
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は現代人の心の中を少し覗き込んでみます。
参考にしたのは劇作家で評論家でもあった、福田恆存氏の文章です。
彼はシェイクスピアの研究家としても、よく知られていました。
『ハムレット』の名訳などは今も有名です。
悲劇といえば、やはりシェイクスピアを思い出しますね。
ご存知でしょうか。
代表作は4大悲劇と呼ばれています。
どれもが壮大で、人間の持つ根源的な悲しみに満ちています。
「リア王」「オセロ」「マクベス」「ハムレット」。
どの話も人間の弱さを描いているのです。
どんな人間でも、外に向けては強い人物のように見えても、内面はみな脆いものなのです。
そこを相手につかれてしまうことで、悲劇が生まれます。
その結果が自らの壮絶な死です。
ハムレットは最期に高貴な魂を、名調子で歌い上げます。
自らの精神のありかを語らなければ、死ねなかったのでしょう。
それはオセロ将軍も、リア王も、マクベスも同様です。
しかしかつてシェイクスピアが書いたような悲劇が、現代にあるのかどうか。
それだけの時間的なゆとりを、我々は手にすることができているのでしょうか
今の時代はどこから、爆弾や無人ドローンが襲ってくるのかわかりません。
突然、有無を言わさず、死に至らしめる装置に満ちています。
その現象を筆者は次のように書いています。
本文
なるほど、昔と違って、今日の生活には徹底的な悲劇も徹底的な喜劇もなくなってしまい、それゆえに舞台でも古典的な悲劇や喜劇が後を絶ってしまったと言えましょう。
しかし、古典劇の時代にしても、実人生は常に平板、空虚な悲劇でしかなかった同じように、徹底した悲劇も悲劇もありえなかったのです。
が、それを芸術のうちに要求せずにはいられない、生き生きした魂の充実は存在していた。
現代ではそれがなくなってしまったのです。
外部の現実が変わったのではない。
内部の心理的現実が変わってしまったのであります。
その結果、芸術にも舞台の上でも、実人生と同じ空虚な悲劇が氾濫するようになった。
人々はこれを正劇、シリアスドラマと呼んでおります。
シリアスとは真面目ということです。
ところで真面目とは何か。
正気とは何でありましょうか。
諧謔や興味を嫌う精神、それが生真面目であります。
それを人間を、自己を、常にその限界内に閉じ込めようとする精神であります。
生真面目な人間ほど、この限界が目について仕方がないのです。
のみならず、すなわち、限界が実際に見えるだけではなく、限界を乗り越えることによってこっぴどく報復されるのが怖いばかりに、なるべく動かぬように心がけるのです。
動きさえしなければ、限界を乗り越えるような間違いはせずに済ませられます。
こうなると限界が見えるというよりは、自ら限界を小さく設定してしまうのに等しい。
その一番いい方法は、欲望に忠実であるよりは、結果に忠実であるということだ。
自らが何を欲するかに耳を傾けようとはせず、現実はいかなる欲望を聞き届けてくれるのかにのみ、ひたすら意を用いることだ。
現実が許容しそうもない欲望を抱き、これを実現しようとはかる人間に対して、生真面目な人はむしょうやたらに腹を立てて不機嫌になります。
きまじめな人というのは 実生活上のリアリストということであります。
福田恆存「芸術とはなにか」
徹底的とは
最初にでてくる言葉にどうしても引っ掛かりますね。
これはどういう意味なのか。
現代には「徹底的」という言葉のついた「悲劇」も「喜劇」もないというのです。
どうしてなのかが気になります。
現代を生きる私たちにとって、欲望を抱くことはどの程度可能なのでしょうか。
もちろん、犯罪にからみ他人を不幸にするなどということは考えたくありません。
つい先日読んだ、川上未映子の『黄色い家』には、クローン化したクレジットカードで現金を引き出したり、スキミングする犯罪者の様子が描き出されていました。
もちろん、他人の財産を盗んだり、人を傷つけたりすることは論外です。
短時間で巨額の金銭や名誉を手に入れたいとまで考えなくても、ある程度の時間の中で、なんとか自分の欲望に近づきたいと考えることはあり得ます。
しかし通常の形ではそう簡単でないことは明らかです。
そこで実現不可能にみえることでも、なんとか自分の限界に挑戦して、結果を得ようとする。
その結果何がおこるのか。
当然、悲惨な事態や滑稽な現実が待っているかもしれません。
それを筆者は、「徹底的」という表現を使って表現したのです。
演劇や芝居は、それを極端な形で強調し、悲劇性を高めます。
ところが、現代にそのような芝居がうまれる土壌があるのかどうか。
人々がそれほ欲しているのかということです。
「生き生き」とした魂の充実が今、あるのかということです。
人々はあまりにも静かに自分の領域に戻り、そこで逼塞しているのではないのか。
諧謔や虚偽を皆が怖れているのです。
嫌っているといってもいいかもしれません。
どうしてなのでしょう。
そこまで現代の人間を追い込んだものの正体は何なのでしょうか。
新しい演劇の土壌は
悲劇や喜劇がうまれるためには、人は自らの欲望に忠実でなければなりません。
しかし現代は欲望以前に「結果」が見えやすい時代です。
つまり多くの人間は必要以上に無理をしないということにつきます。
少し話は飛びますが、このことは受験生の心理を考えてみればよくわかります。
現代は少子化の時代です。
望まなければ、どこかの学校へ入れます。
無理をすることはないのです。
おりしも、大学側もさまざまな試験を用意してくれています。
探求をメインにする総合型選抜などは典型的ですね。
無理してたくさんの科目を勉強しなくてもいいのです。
「大学入学学力テスト」などは、もうつらくてやれなくなっています。
つまり結果が約束されているもの、実現可能なものにしか手を出そうとしない傾向が強まっているのです。
「なるべく動かない」ことで、悲劇や喜劇をうまない。
これが現代人の生き方なのではないでしょうか。
とにかく理屈抜きに、今を楽しむ。
新しい演劇がうまれる土壌が、限りなくやせ細っているのです。
シェイクスピアのような劇作家か出ないのは、そこに明確な理由があるからです。
けっして私たちの能力が劣っているのではありません。
必要とされていないのです。
シリアスドラマが氾濫し、現実を追いかけていきます。
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実生活上のリアリズムの中にしか生きられなくなった、私たちのこれからはどうなるのでしょうか。
悲しいことですが、傍観者としての人生が、当分続いていくだけとも考えられます。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。