【日本人と外国語】読めるけどしゃべれないのはなぜなのか【地政学】

学び

読めるけどしゃべれない

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は少し日本人と外国語の関係について考えてみます。

突然ですが、あなたは外国語を流暢に話せますか。

英語をイメージしてみてください。

見知らぬ外国人に道を訊ねられたりしたとき、どうでしょうか。

きちんと対応できますか。

ジャパニーズスマイルとよく言われますが、ただ笑顔でごまかしてしまう人も多いことでしょうね。

今は小学校から英語を学びます。

簡単な単語や会話を憶えて、コミュニケーションをとるという機会も増えてきました。

そのために教育委員会はALTの先生を雇い、各校に派遣しています。

中学校になると、もっとこの傾向は強まるのです。

英語の授業そのものもかなり組まれます。

それでもあまり上達しないというのが、本当のところではないでしょうか。

英語は読めるが、しゃべれないという人は大変多いのです。

特に日本人は会話が苦手です。

聞き取りが十分にできないのです。

どうしてなのでしょうか。

これだけインバウンドの旅行者が増えてきたのにもかかわらず、苦手意識を持った人の数は少しも減りません。

もしかすると、日本人にだけ外国語に対するアレルギーが強い理由があるのか。

少し探ってみたい気もします。

特に文化の成立過程に何か、他の国々とは異なる理由が潜んでいるのかもしれないのです。

参考にしたのは精神分析学者、岸田秀氏の文章です。

本文

日本は、日本列島が中国大陸の支配勢力に容易に征服されるほど近くはなく、大陸文明の影響を受けないほどには遠くないという微妙な地理的条件にあったため、そのいずれにもならなかった。

日本は、他の文明に征服されることなく、その文明の影響を受け、自ら進んで、それを取り入れて国家を形成したという非常に珍しい例である。

この国家成立の条件が外国語というものに対する日本人の態度を決定づけたのではないか。

征服されたのであれば、征服者と外国語を否応なく喋らねばならない。

何の影響も受けず無関係なら、外国語なんて全然知らなくてよい。

そのいずれでもなかった日本は、外国語は外国人と話すためのものではなく、外国の書物を読み、外国文明を勝手に換骨奪胎して、都合のいいところだけを取り入れるための手段に過ぎないと思ってしまったのではないか。

外国語を喋れないのは喋りたくないからではないか。

外国語を喋らないことによって、外国文明の圧倒的影響が日本側のフィルターを濾過せずに、外国人という具体的存在を介して直接もろに入ってくることを防ぎ、かろうじて日本人としてのアイデンティティを保っているのではないか。

日本は、ペリーショック以来、欧米を崇拝し模倣しようとする外的自己と、独自の日本文化、純粋な日本民族といった幻想にしがみつき、欧米を嫌い忌避しようとする内的自己に分裂していると私はかねてから主張し続けているが、

この分裂が続いている限り、欧米文化を書物の枠の中だけに閉じ込めようとする日本人の傾向は続くのではないかと思われる。

したがって、日本人が外国語をうまく喋れるようになるためには、技術的問題がどうのこうのというより、太古以来の、そして近代になってさらに激化したこの分裂を克服する必要があるであろう。

地政学

日本という国が実に微妙な場所に位置しているということを、もう1度考えてみましょう。

確かに今まで、他の民族に支配されたことがないのです。

中国大陸の影響を非常に強く受けたものの、征服されるほど、近くはありませんでした。

元寇のことを思い出せばよくわかりますね。

2度とも「神風」が吹いて、失敗に終わりました。

さらに他の文明に支配されたということもありません。

植民地にならずにすんだのです。

アジア大陸のようにつながっていたら、もしかしたら植民地化されていたかもしれません。

明治維新の手前にはずいぶんとたくさんの国から、開国を迫る船がきました。

しかし、なんとかしのいだのです。

さらにその国の文化をものすごい勢いで採り入れて、近代国家を作り上げました。

特に鉄砲や大砲などの火器を、瞬く間に自分たちの技術にしました。

これはすごいことです。

征服されたのであれば、当然、その国の言語をしゃべらないわけにはいきません。

かつて日本も朝鮮にたいして、自国の文化を強要した歴史があります。

逆にいえば、日本は全く外国語を知らなくてすんだのです。

先見的な指導者たちは、それまでのオランダ語からすぐ英語に切り替えました。

その代表が福沢諭吉ですね。

彼は一冊の辞書をまるごと頭の中に詰め込んでいきました。

それはしゃべるためのものというより、彼らの文化や文明を読み取るための手段だったのです。

はやく、政治や経済の仕組みを知りたい。

議会の運営のために必要な法律とは何か。

全てを知るために英語という外国語を理解する必要があったのです。

日本が世界に負けないで生き残るための方便が、外国語の習得を意味しました。

通訳にはジョン万次郎のような人間がいれば、それで十分だったのです。

外国の文明を取りいれる主体はあくまでも日本人です。

そこにアイデンティティの根拠が存在していました。

決定権は日本に

欧米に対するコンプレックスの話はよく出てきますね。

日本人はいつまでたってもそこから抜け出せないのかもしれません。

漱石や鴎外がどれほど苦労したのかということは、よく語られます。

特に漱石は英文学を学んでこいといわれ、その背景にある歴史や宗教の深層にまで入り込むことになりました。

1人の日本人にとって、到底理解することなどはできなかったのです。

そのため彼はノイローゼになり、日本に強制送還されます。

それに対して、鴎外は専門が医学であったため、ひたすら技術の習得に励みました。

彼が精神的に侵されなかったのは、医学が実学であったことによります。

日本人のアイデンティティとは何かという問題にぶちあたった漱石は、膨大な英文の書物を読みました。

話すのはあまり得意ではなかったものの、読む力は圧倒的だったのです。

かつい漱石展があったとき、彼が持参した本の実物を見たことがあります。

どのページにも細かい書き込みがあるのに驚かされました。

日本人としての彼が外国文明を取り入れるためには、書物の枠の中にだけ入りこむ必要があったのでしょう。

それと同じことを、多くの日本人はもっと広く薄く実行してきたわけです。

書物は入れても人はいれないという思想が、今も日本の文化の根底にはまだ巣食っているのかもしれません。

新しい考えだと言われて、すぐに飛びつくものの、すぐにまたそこから離れ、次の思想に移ろうとする傾向が今もあります。

結局、外国と呼ばれる西欧を中心とした社会に対する感性は、昔から今にいたるまでそれほどかわっていないのかもしれません。

英語やほかの外国語が流暢に話せるだけで、なにか特別に優秀であるような意識を、日本人は持っています。

しかしアジアの言語に対して、そこまでの強い感情があるとは思えません。

欧米の脅威にさらされた日本人の血には、今もかわらない心性が宿っているのでしょうか。

これからの時代を生き抜くためには、外国人とのコミュニケーションは必須です。

それが何語であれ、話せることは意味があります。

外国文明を採り入れるか採り入れないかの決定権を、いつまでも握っていたいなどという暢気な時代ではありません。

その証拠が、現在の経済状態そのものではないでしょうか。

かつて安い安いといってでかけていったアジアの国々の通貨は、現在どういうレートになったのか。

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日本の賃金体系をみてみれば、それは一目瞭然なのです。

今回は最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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