領土の線引き
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「権力とは何か」という壮大なテーマについて考えてみましょう。
一言で述べるのは大変に難しいですね。
権力が持っている、さまざまな側面を捉えることがここでの主眼です。
政治学者の杉田敦氏の文章は権力というものの、不可思議な側面をうまく捉えています。
一般的に民主主義や政治理論についての文章は難解なものが多いです。
その中で、彼の著述は比較的にわかりやすいのです。
わたしたちは普段、権力とは何かなどいうことをあまり考えません。
最も大切な要素は、なんといっても領土を確保することです。
外交によって他の主権国家と平和な関係を保つことです。
しかし時には戦争に訴えても、領土争いに勝つ必要があります。
北朝鮮がミサイルをEEZ(排他的経済区域)内に発射したなどという事案があると、すぐに非常警戒アラートが発令されたりします。
自衛隊のスクランブルなども、よく聞く話ですね。
海にも空にも領土が設定されているのです。
2011年にはそれまで個人の私有地であった尖閣諸島を、国有化するという出来事がありました。
それ以前から中国の船舶が時々、領海に侵入する事案があったのです。
海上保安庁の巡視船に対して、意図的に衝突することなども発生していました。
さらにこの島の所有権が国に移ったことで、海警局の船舶が接続水域に入域することも増えています。
権力とは何か。
その第1は領土の線引きに対する、飽くことなきエネルギーそのものです。
杉田氏の文章の最初の部分を少し書き抜きます。
権力には2つのパターンがあるということを、しっかりをチェックしてください。
権力の形
権力にはさまざまな形があり、分類の仕方もいろいろあります。
最も典型的なものと考えられてきたのが国家による権力ですが、それも大きく2つに分けることができます。
国境線を引く主権的な権力というのがその1つです。
そうした権力は、たとえば国境線がどこまでであり、領土がどの範囲なのかということに、非常に大きな関心をもちます。(中略)
これに対して、国家権力のもう1つのあらわれとして「群れ」の生存と繁栄そのものに関心を持つ権力というものがあります。
この権力は教育、公衆衛生、都市計画、そして福祉などを通じて私たちにはたらきかけてきます。
主権国家ができたときには、前者のような境界線を引く権力が主流でした。
後者のような生存に配慮する権力が強くなってきた背景には、国民主権になったことがあると思います。
君主主権の場合には、王の言葉が法であったわけですが、国民主権になるためには国民の声が法とならなければならないのです。
法が1つの声となるためには、国民が同じような人びとでなければならないのです。
そこで同質的な国民をつくり上げようとする権力がでてくるわけです。
同質化圧力は、20世紀の全体主義の時代に初めて生まれたわけではなくて、国民主権との関係ででてくるのです。(中略)
この争点は普段はあまり意識されていません。
しかしこの2つの違いはたとえば経済的に深く結びついている隣国の間で、領土をめぐって争いが生じたような場合に、見えやすくなります。
ある人びとは経済のためなら領土については交渉し、妥協すべきだと考えます。
しかし別の人びとは、領土で妥協するくらいなら経済に悪影響があってもいいと主張するでしょう。
ここにも政治をめぐるきわめて重要な対立軸があるのです。
同質性
権力と自由の関係は複雑ですね。
国家権力はどこまで危険なものなのでしょうか。
権力と国家を対立するものと考え、権力をできるだけ小さくしようとする考え方が自由主義の原点です。
その反対が国家の主権を前面に出して、体制の在り方にNoという人々を強制的に排除する方法です。
信仰の弾圧や政府批判に対する言論統制などは、非常にわかりやいパターンですね。
どちらがよりすぐれているのか。
これは一言で言い切るのは大変に難しいのです。
しかし多くの人が言論の自由がある社会を望んでいることは、間違いありません。
その証拠に香港が一国二制度から失われたことで、かなりの人が去りました。
イギリスやカナダなどへ移住した人も多いのです。
とはいえ、情報を極力統制して国家の目標と相いれない人々を強制的に排除する国家も現実にあります。
これこそがまさに権力の力といえるのでしょう。
世界の流れは明らかに自由主義の方向に流れています。
独裁者が政権を掌握し、選挙そのものが機能しないなどいう国家を好むとは思えません。
しかし今、世界には日々のニュースさえ満足に見られない国も存在します。
インターネット社会でありながら、完全に情報をシャットダウンされているのです。
政権にとって明らかにしたくない情報を閉ざしている国もあります。
この部分はどちらかといえば、領土の線引きに対する、飽くことなきエネルギーを持つ権力だといえます。
ところが権力には全く違った面もあるのです。
それが第2の道です。
同質的な国民をつくりあげるエネルギーに傾く、権力の形です。
教育と公衆衛生
たとえば、学校のシステムを考えてみましょう。
よく言われることの1つに、学校は言語や歴史観を押し付けるという論点があります。
確かに強制的ですね。
まさにこれこそが権力の一面です。
日本で行われた戦前の皇国史観などは、あまりにも無謀なものであったといわざるを得ません。
しかし同時に、権力はあらゆる子供が学校にいけるように、税金を集め、一元的に学校を運営します。
これはどのような体制の国でも、似たシステムで行われているのです。
もちろん権力によって教育が行われたとしても、そこで得られた能力を得た人たちが、権力を批判することもあります。
さらに公衆衛生なども同様です。
コロナの蔓延などをみれば、権力が強制的に衛生水準を維持するため、あらゆる方策をとった事実は歴然としています。
1週間以上も外出を許可しなかった中国の例などもありますね。
もっといえば、権力は最低限度の生活を保障することを模索します。
生存権確保のためです。
生活保護の原資は税金です。
それだけに支給後の生活状況を監視するなどという権力の持つ強制を受けなければなりません。
「群れ」の生存と繁栄そのものに関心を持てば持つほど、権力はその力を発揮しようとするのです。
ではなぜ人びとは権力を嫌い、体制を崩壊させようとしないのでしょうか。
その答えが次の文です。
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私たちが権力を支えているのは、権力の効果について、私たちが計算のようなものをしているからではないでしょうか。
意識的にせよ、無意識的にせよ、権力の「バランスシート」のようなものをつけていて、明らかなマイナスになった場合には、その権力を支えることはやめてしまう。
しかし、かろうじてプラスになっている間は、権力の否定的な側面があるにせよ、とりあえずその権力関係の中にいることを選択するということなのではないでしょうか。
もちろん、この計算はいつも正確に行えるというわけではありません。
それどころか、私たちはしばしば計算をごまかされることになります。
しかもごまかされていることに気づかないことも多いのです。
そうした側面を含めて、権力なのです。(中略)
ある権力の中で、どのくらいのマイナスがありプラスがあるかは人によって異なるでしょう。
ただこれだけはいえます。
それは大多数の人が我慢できないような状態になれば、権力は維持できなくなるということです。
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冷たい現実がここにあることを理解していただけましたか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。