書評のススメ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は書評について、少し考えてみます。
ぼくは長い間、好きなように授業をやってきました。
小説も詩も評論も、もちろん古文も漢文も。
それでも何か悔いが残ることはないかと訊かれたら、書評を少し試みておけばよかったなと思います。
読書感想文を夏の課題にしたことは、何度もあります。
しかし書評というレベルにまでは達しませんでした。
読書感想文と書評の差は何かと言い出したら、これはかなりの難問ですね。
もちろん重なる部分も多くあるでしょう。
ただし書評と読書感想文とはやはり違います。
1番の違いは、他者に対する視点の位置かもしれません。
感想文はどこまでも「私」の視点が先に立ちます。
それに比べると書評には「第三者」の要素が大きく関わります。
「私」以外の視点が大きくかぶさってくるのです。
自分がこう感じたのだから、こうなのだというのは、作文に近い書き方です。
それに比べると、書評はより小論文に近い性質を持っています。
きちんと論理的に説明ができているかどうか。
それが常に問われるのです。
書評は誰に読まれるのかを、つねに意識する必要があります。
全くその本を読んだことのない人にも、ある程度理解できる内容でなくてはならないのです。
つまり客観性を担保するということです。
新聞を参考に
書評を書くには、新聞を参考にするのも1つの手ですね。
週末には、まとまった書評がよく掲載されます。
自分がこう感じたということだけを列挙したのでは、ダメです。
筆者の横顔を示すことも大切なのです。
川上弘美の代表作としてよく教科書に所収されている『神様』という短編集があります。
読んだことがありますか。
このサイトでも何度か記事にしました。
実にユニークな9つの短編を、作家の堀江敏幸が書評にしたことがあります。
『本の音』というタイトルの本です。
積みあげられた本の山を崩しながら、彼が書き溜めてきた84冊の書評を集めたものです。
そこから『神様』についての部分を、教科書に掲載したものがありました。
これを読んでいると、そこには確かに川上弘美のルーツをつかみとった作家、堀江敏幸がいることに気づかされます。
興味深いので、少しだけ引用してみましょう。
どういう点に着目して文章を書こうとしているのか。
それを読みとってください。
作家の目を育てていくことが、いい書評を書くための道筋なのです。
今はもないものの光
川上弘美の語り手が、周囲の人々と、いや人々ではなくむしろ「存在」たちと結ぶコミュニケーションの形態はいつも恋に似ている。
とはいえ、それがただの疑似恋愛であれば、こんなにも軽やかで切ない空気は流れないだろう。
作者が目を凝らし、ときには息をつめ、それでいて外からは肩の力をきれいに抜いているようにしか見えない呼吸をつむぎながら描き出すのは、当たり前のように遭遇した「存在」たちとの精髄だけの恋なのであり、多少大袈裟にいえば、刹那的にしかありえない命の手触りである。
事実上の第一作として認知された表題作をふくむ短編集『神様』に収められた9つの作品は、一様に接触と離反を主題としつつ、電子の冷たさをじんわりと人肌の温もりに変えるような不思議な熱を帯びている。
ここにはあからさまな恋の台詞も性愛の場面もない。(中略)
たとえば「神様」で、語り手「わたし」のマンションの三軒隣に越して来た雄のくま。
図体に似合わず昔気質の細やかな気遣いを見せるこのくまは、べつだん姿を変えるわけでもなく、人間界でごく普通に生活を営んでいる。
「わたし」はこの大きなくまに誘われてハイキングに出かけ、楽しい一日を過ごしたあと、自宅の前で、やはりくまの申し出を受け入れて抱擁を交わす。
川上弘美を電脳ネットの文学賞から活字の世界に送り出したのは、おそらくこの恥ずかしげでぎこちない、けれども人間同士の抱擁などよりずっとあたたかな、それこそ「熊の神様のお恵み」を信じるのがごく自然のことのように思えてくる情感を掴む筆力だろう。(中略)
異界的とも呼びうる状況設定なのに、もってまわった口実作りなど抜きにして、なにかが突然「わたし」の日常に降り立ち、ひどく近しい「存在」となって呼吸を開始する。
冷静な観察眼
この文章を通して感じるのは、書評者の中にある冷静な目です。
どこが面白かったとか、この部分に感動したというのではありません。
なぜこの作品に想定以上の命が吹き込まれているのか。
その構造を明確にしたいという強い意志さえ感じます。
いわゆる読書感想文ではない背骨の通った文章力と観察眼がなければ、成立しないということはわかってもらえたでしょうか。
書評とはどちらかといえば、最近よく耳にする「ビブリオバトル」に近い要素を持っているのかもしれません。
しかしそこにプロパガンダ的な要素は、まったく必要ありません。
もっと自分の内側にある言葉をためて、それを少しずつ吐き出していく作業に近いのです。
一般論として、読んだ本の感想を言語化してみるのは、とても学習効果が高いと言われています。
アウトプットの持つ効果は想像以上のものなのです。
言葉を紡ぎだすには、かなりの力技がいります。
その繰り返しが国語力の向上には不可欠なのです。
あなたにはできますか。
堀江敏幸の書評にはいくつかのキーワードが出ています。
例えば、「接触と離反」です。
出会いと別れと言い換えることも可能です。
しかし通常のそれではなく、もっと深い魂同士の色合いが濃いですね。
彼の言葉でいえば、「存在」です。
そこにあるもの同士がどうやってコミュニケーションを行い、離れるのか。
そのために、何が必要で、何がいらないのか。
ギリギリまで削ぎ落した内容であることが、川上弘美の小説群だと論じています。
どう書くのか
書評に必要なのは第三者の冷静な目です。
まったくその本のことを知らない人にどうしたらアプローチできるのか。
関心をもってもらうことが、最も大切な最初の道のりです。
その次が著者に対する視点でしょうね。
どこがその書き手の芯にあたる部分なのか。
それを見通さなくてはなりません。
それができれば、書評のかなりの部分は完成したことになります。
人間の脳は、アウトプットをした瞬間に確認作業を繰り返します。
自分はこういうことを考えていたのだということに突然気づくのです。
実はそれが最も新鮮で、楽しい時間なのではないでしょうか。
そのために書評を書いているのだといっても過言ではないのです。
しかし実際に作業をすすめると、言うほどに簡単ではありません。
見えていないことがあまりにも多いことに、気づかされるからです。
感動は確かにあります。
しかしその背後から、言葉が出てこないという現実が追いかけてきます。
その時、必要なのは何か。
究極は自分の立ち位置でしょうね。
どの視点から著者のポイントを見るのかということです。
光源をどこにおくかによって、見える世界は全く違ったものになります。
どういう光を使うのか。
自分の決めたキーワードをもとに筆者の世界を経巡るのです。
そうすれば、自ずと言葉が生まれてきます。
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ぜひ1度、試みてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。