【劇場型と博物館型】二項対立の構図を利用し西洋と日本の家を考える

小論文

劇場型と博物館型

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は日本の家はどのようなものかという論点について考えてみましょう。

普段、あまり考えたことのないテーマなのではないでしょうか。

筆者は美術評論家で思想家の多木浩二氏です。

この文章は写真家、篠山紀信氏の写真集『家』のために書かれたエッセイを元にしています。

主題は何か。

ズバリ、日本の住居の特性です。

文化論としてよく論述される内容ですね。

二項対立の要素がたくさんあります。

特に日本対西洋という比較をしたとき、居住空間の在り方があまりにも違うということに注目してください。

よく木の文化と石の文化という捉え方をします。

日本の家は長い間、ずっと木で作られてきました。

一部の寺社を除き、長い年月の間、持続し耐えるという構造にはなっていないのです。

火災に弱いという面もあります。

不動産という言葉をよく使いますね。

家は脆く、上物と表現され危うい存在です。

それに対して土地は永遠という思想に貫かれているのです。

さらに室内に一歩踏み込んだ時、どのようなことがいえるのでしょうか。

室内の明暗やしきりの様子などはよく論じられるポイントです。

谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』は、日本の家屋の持つ奥深い意味を指摘しています。

ここでは2つの対立軸を考えましょう。

それが「劇場型」と「博物館型」という論点です。

劇場型とはどのような意味なのでしょうか。

日本では部屋の機能が、出現する物=象徴によって生じるということなのです。

本文

日本の家には実対的な強さはなく、実体の視点から見れば空虚である。

それが無意味なのではなく、逆に意味に浸透されている例を我々の日常生活の中から拾い出すことは容易である。

たとえば、ある家を訪れると先客がいる、その先客は後からやってきた私に、今まで自分の座っていた座布団を裏返して差し出し、自分は畳に滑り降りる。

このようなしぐさはいろいろな場合に経験する。

この操作で今まで彼に敷かれていた経過は消滅し、座布団は新しいものになった。

裏返しは自分の体温の移っていない面を出すという生理的な配慮以上に象徴的なしぐさなのである。

この所作は、お互いの了解するところであるから、すでに文化的なコード(慣習)というべきであろう。

たしかに客に新しい座布団を提供することは礼儀にかなったことかもしれない。

ある民族では、人の住んでいた「家」に引っ越して住むことは到底考えられない屈辱で、移住に際して自分の「家」を新しく建てるというほどである。

それほどでなくても新しく物をおろすことは、日本人の生活の一つのけじめである。

しかしここで問題になるのは、実際に新しくするのではなく裏返すと事情が一変するという現象である。

実態は連続して存在しているが意味のうえではこの連続が断ち切れている。

物は実体として存在するだけでなく、意味の次元に存在していることがにわかに明らかになる。

我々はこの両方の次元において物を理解するが、重要なのはむしろ意味である。

今の場合、意味の次元はしぐさによって構成されている。

このしぐさは後に続く行為の場面全体を変えるのだから、「家」は常に象徴的なしぐさによって様相を変えていると言ってよいわけである。

これは出来事と呼んでもいいような意味に染まった身振り(パフォーマンス) である。

おそらくそこから身体の記号論が浮かんでくるし、そのような記号論の成り立つ場として、家の演劇的な理解が開けてくるように思う。

座布団を裏返す

一般に「高座返し」と呼ばれている作法があります。

これは寄席でよく使われる言葉です。

前座が出てきて、布団を返すシーンをみたことがあるでしょう。

普段の暮らしでも、自分が使った座布団を人に回すときは、裏返すのがマナーです。

温めてしまった表面を裏にして、そこから新たに再生させるワケです。

このような文化はあまり外国ではみかけませんね。

つまり日本人に特有な感覚なのでしょう。

生理的に温まっているから気持ちが悪い、というのだけが理由ではありません。

純粋に文化の問題です。

心の持ちようということなのでしょう。

westerper / Pixabay

しきりなども同様です。

襖や障子を1枚隔てたからといって、中の声が聞こえないということはありません。

しかしそこに結界をつくるという意味があります。

ここからは入ってはいけない場所であり、中の話し声を聞いてはならないのです。

たとえ、聞こえたにせよ、それを他言してはいけません。

それが不文律と呼ばれるものです。

神社などの神聖な領域に入るために、水で口をゆすぎ、手を洗います。

懐紙などで拭き取るという事実が、神との出会いの場にふさわしい行為だと考えるのです。

不浄である自分の身体を清めるという作用があります。

滝行や、水垢離などもその一種です。

日本人は当たり前のようにこれらの文化を受け入れてきました。

筆者のいう「劇場型」の文化です。

元々、襖や障子で仕切られた部屋に意味はありません。

夜になれば、布団を敷いて寝る場所にもなります。

しかしその場が神との交感の場になるように、貢物を置いて飾れば、厳粛な儀式の場にも転換します。

まさに意味が部屋の役割を変えるのです。

元々はなにもない「虚」であればあるほど、他のなにものにも変換しやすくなります。

無駄な飾りをしないことが、より意味を自由に増すことに繋がるというワケです。

機能の変化

日本の家の部屋は、そこに出現する机とか布団とかいう物によっても意味がかわります。

現れる道具が少し変化するだけで、そこに生じる出来事が違ってくるのです。

床の間の掛け物などはその最もいい例ですね。

季節にあわせて、部屋の持つ意味が違うものになります。

襖を全てはずし、部屋全体を薄い簾で覆ったりもします。

京都の町家などで繰り広げられる春から夏への転換は、みごとというしかありません。

そこに置かれるものや飾りは、一時的に現れ、しばらくすると姿を消します。

何を置くかによって、その部屋に出入りすることの意味が変化していくのです。

西洋の置物は一般に博物館型と呼ばれています。

季節によって、その部屋にあるものが頻繁に変わるということはありません。

同じ場所に展示物のようにして、長い時間、滞留します。

祖父や祖母が使っていたものまでが、みごとに使用されているのです。

素材が石の家の場合、内装だけをかえて、外側は何世代も使われるということは珍しいことではありません。

日本の木の家屋とは根本的に、その性質が違います。

西洋の家に置かれているものとの違いを調べてみると、そこには全く違う文化的な感覚が流れていることに気づくはずです。

できたら、今回のテーマを小論文にまとめてみてください。

二項対立の典型的なパターンでまとめられるはずです。

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文化論は必ずやっておきましょう。

小論文の基本です。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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