二項対立
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「自由」という問題を広い視点から考えてみます。
この問題はかつて山形大学で出題されました。
実際の試験は評論文の読解が主でした。
ここではさらに一歩踏み込んで、小論文の設問にしてみましょう。
典型的な二項対立の問題ですね。
ポイントは自然と人間との共生です。
実際にそれが可能であるとすれば、それは人間がどの位置に立った時か、という論証です。
個人の自由の権利を旗印にして生きていくことと、自然とはどういう関係になるのか。
どうしたらともにストレスなく生きていけるのかという問いです。
設問をじっくり読み込んで、何が問題で何を論じようとしているのかを理解してください。
評論は相手の論理のワク組みにそのままのることが大切です。
そのなかで、何がポイントであり、筆者はどうしたいと提案しているのかを自分の言葉で解釈するのです。
ある程度の理解が進んだら、次は自分の論拠を書きます。
筆者の論点に賛成できるところ、疑問が残るところを突き詰め、最終的に自分の立場を明らかにします。
なぜそう考えたのかを明確に説明するのです。
そして最終的にそれならば、次にどうしたいのかという方法論に入ります。
少しでも変革の意志をあらわした方が、好感がもたれます。
分かりにくい場合はチャート図を自分で描いてください。
この場合は人間と自然の周辺に何があるのかをまとめることから始めてみましょう。
自由との関係
最も最終的に大切なのは「自由」との関係です。
キーワードの部分集合を示すのです。
そこからしか文章は書けません。
慌ててやると、途中で論理がねじれてしまいます。
800~1000字程度の文章を書くことを想定してください。
時間は60~80分ぐらいを目安にします。
限られた時間のなかで、書き切ることが大切です。
できたものは、信頼できる人に添削してもらいましょう。
「てにをは」の誤りを直すだけでなく、論理の筋道をきちんと把握し、評価できる人を探してください。
残念ながら小論文を読み切れる人は、それほど多くはありません。
それだけに自分の目で、この先生はという人をあらかじめ探しておいてください。
ていねいにお願いしましょう。
何度でも書き直す気力がなければいけません。
短い時間で効率よく文章がうまくなるという方法はないのです。
どこを修正すればいいのか、1つ1つ学んでください。
同じミスを繰り返さないことです。
特に論理のねじれ、対応する表現の選択には十分に注意すること。
実際の文章は長いので、一部省略してあります。
課題文
自然は歴史の進歩も発達ものぞんではいない。
あるとき、ふと、この当たり前のことに気づいた。
自然の求めている自由とは、自在に生きることであって、永遠に変わらない世界のなかで、昔と同じように自在に存在しつづけることのはずである。
ところが、もしそうだとするなら、自然と人間の共生には、大きな困難がよこたわっていることになる。
進歩も発達ものぞまず、永遠の世界の持続しつづけることを理想とする自然と、すべてを変えようとする人間とが、同じ時空を共有することなどできるのであろうか。
人間は進歩や発達の道が閉ざされていることを不自由だと感じ、自然は変化によって自分たちの生存基盤が変えられていくことを、不自由だと感じるのである。
もしも、太古の世界が回帰したとしたら、それは自然にとっては自由の回復であり、人間にとっては、少なくとも現代人にとっては、自由の喪失であろう。
とするとこの自然と人間の違いは、どこから生じたのであろうか。
私にはそれは、イデオロギーに支えられながら生きる人間と、イデオロギーの支えを必要としていない自然との相違であるように思われる。(中略)
人間たちは、進歩や発達を人間社会にとって不可欠の要素だと考えるイデオロギーをもつことによって、自らの行動を支えながら生きている。
自由もまた同じ性格をもっている。
なぜなら人間は、自由をも一度理念化し、その理念をイデオロギー的な支えとして、自由を語る習慣をもっているからである。
自然はそんな面倒なことをしない。
自在に生きていられることが、自然にとっての自由である。
それは、ときに水辺に降り立ち、ときに大空を舞い、ときに森や草原に木の実、草の実を探しながら、自らの尊厳に満ちた一生を送ることが、鳥たちの自由であるように。
イデオロギーに支えられているようになった人間は、その理念を実現していく変化をのぞむ。
そしてそのこと自体が、自然が自在に、のびやかに生きていくためには妨げになってきた。
あるいは次のように述べればよいのかもしれない。
自然は自分がのびやかに生きていくことが、自然の創造なのである。
森の木がのびやかに生きていくことが森の創造であり、動物や鳥や虫たちが自由に生きていくこと自体が、自然そのものであるようにである。
自己の存在が自由であり、自分がさまざまな自然と自由な関係をもつことができること、それが自由な自然の姿である。(中略)
近代社会の形成以降は、人々はこの自然と人間の関係を、人間が自然を征服することをめざして行動してきた。
それが近代人の理念であり、イデオロギーであった。(中略)
とすると、この点でも自然と人間の共生は容易ではない、ということになる。
少なくともこの困難さを忘れてしまったら、自然と人間の間によこたわるもっとも重要なことを、私たちは忘却したことになるだろう。
生きることの意味
出典は哲学者、内山節氏の『自由論』です。
自然や労働をテーマに現代に生きることの意味を考えようとする学者です。
最初の文章はインパクトがありますね。
自然は歴史の進歩も発達ものぞんではいない、というものです。
永遠の世界の持続を理想とするのが自然だとするなら、すべて変えようとしている人間といい関係が保てるワケがありません。
ここでのキーワードは「イデオロギー」です。
自然と人間の間にイデオロギーというパラメーターを入れたことで、その形がいっそうくっきりと浮き彫りになりました。
人間は自然さえも知性によってしか理解できない、というパラドックスを持っています。
ありのままに自然を受け入れるということが、不可能になってしまったのかもしれません。
つまり人間と自然との共生は大変に難しいということなのです。
近代人は自然を破壊することをめざして行動しました。
その結果、今日、人々は自らの傲慢さを知りつつあります。
気候変動1つをみても、共生の難しさが如実に表れています。
人間は自然の一員なのでしょうか。
それを自然によって許されているのか。
知性で理念として捉えてきた自然はむしろ人間から遠ざかっているのかもしれません。
自然の一員でないとしたら、どう生きていけばいいのか。
共生の可能性は断たれたのか。
ここが最後のあなたの考えを示すところです。
それでも謙虚に人間の立つ場所を、自然の中に生きる生物として探すのか、あるいは諦めるのか。
その方向性をきちんと書き込んでください。
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それなしには、この文章の評価は明らかに低いものになります。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。