【小論文Tips】問題を探しだすという行為の中に解答への糸口がある

小論文

問題を探しだす

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

毎日、ブログを更新しています。

小論文についての内容が1番多いですが、それ以外のものもあります。

始めて3年が過ぎました。

既に4年目に入っています。

毎日、どうやってテーマを探しだすのか。

実はそれが最も手間のかかる厄介な問題です。

自分の中にあるものが、ふっと何かの言葉などに触れた瞬間、これだと感じるのです。

突然、発火するとでもいえばいいのでしょうか。

そういう意味で、先人の言葉などは、たくさんのヒントに溢れていますね。

都立西高校の推薦入試には、本当に短いテーマのものが多いです。

先日も生徒の文章を添削しました。

この問題でした。

平成30年度の入試に出題されたものです。

「問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね」という数学者・岡潔の言葉です。

出題されたのはたったこれだけです。

50分、600字。

あなたなら何を書きますか。

テーマ型と呼ばれる問題は本当に難しいです。

ほとんどヒントがありません。

あなたが持っているものが全てです。

それ以外には何もありません。

あえていえば、ここでのキーワードは「問題」「答え」「不可能」の3つです。

どこから書くか

「問題を出す」とはどういうことか。

「答えを出す」とはどういう作業か。

この2つを深掘りしていくのです。

どちらが難しいのでしょうか。

冷静に考えれば、問題発見能力のすぐれた人には、解答能力もあるのです。

いつも誰かが提出する問題をといているだけでは、とても高みにのぼることはできません。

そこに定義があるとしたら、それを疑うこと。

そこに新しい発見の芽があると考えるべきでしょう。

自分の中にそれだけの能力があるか。

誰も今まで考えつかなかった内容にいたれば、そこに発見の兆しがあるワケです。

しかしこれは簡単ではありません。

実は最も厳しく難しい現実です。

この問題の深層には何があるのか。

深みに降りていかなければなりません。

ひょっとすると別の問題ともつながっているのかもしれません。

案外、逆説に満ちた内容の中に、大きな可能性があるかもしれないのです。

問題、発見というと、すぐに理系的な内容を考えると思います。

宇宙の成り立ちなどを考えることも無駄ではありません。

しかし社会科学の中にもそういう例はたくさんあります。

マックス・ウェーバーの代表作といえば、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』です

資本主義がなぜ発展したのかを説いた本です。

普通ならば、それぞれが好きなように金儲けをしたから、資本主義が発展したと考えそうなものです。

しかし彼の考え方は違いました。

禁欲の果て

財産を増やすための労働がどこから生まれてきたのかを思索したのです。

全く別の切り口から攻めました。

その結果、皆が好きなように金儲けに走ったからなどとは結論づけませんでした。

彼はこう考えました。

資本主義の根底には、厳格なクリスチャンであるプロテスタントの禁欲がベースにあるに違いないと推論したのです。

それを進めた結果、人々は倫理的な正当性を手にしました。

さらにその事実が資本主義の持つ際限のない欲望や世俗的な出世などとは一線を画したのです。

つまり禁欲が金儲けより上位に置かれたのです。

だから資本主義は、醜くならずに発展を遂げてきたと考えました。

もちろん、これにはたくさんの反論もありました。

あまりにもきれいごとにすぎるというのです。

しかし1920年に出版されて以来、この本は今にいたるまで、「資本主義の精神」を語る時のバイブルになっています。

資本主義は批判の対象にされる経済システムではないのだということです。

この論理の根本には逆説がありますね。

誰もが考える論理を裏側からたどっていったものです。

しかし意外性と同時に、説得力を今日でも持っているのです。

この例は何を意味しているのでしょう。

つまり問題発見能力を得た者が、真に解答を得るということです。

ではそんなことが誰にもできるのか。

それは簡単ではありません。

この作業は同時並行して行われるのではないでしょうか。

啐啄同時

「そったくどうじ」という言葉を聞いたことがありますか。

卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時のことです。

卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といいます。

ちょうど同じ瞬間に、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」というのです。

つまり雛鳥と親鳥の動作が真反対で、しかも同時に行われるということです。

1つのチャンスが両者にとってかけがえのない瞬間になるのです。

つまりこれがここでいう、「問う」ことと「答える」ことの持つメカニズムに他なりません。

真に意味のあるいい問いを発することができれば、意義ある解答を得ることも可能なのです。

もちろん、いい加減な気持ちで問うても無意味です。

geralt / Pixabay

良問を得て、それを問い続け、答えを得ようとするという態度が貴重なのです。

夏目漱石は小説『門』の中で、かつて円覚寺に参禅した時のことを綴っています。

そこで老師にだされたテーマは「父母未生以前の私」とは何かという問題でした。

あなたの両親がうまれるより以前、あなたの存在はなんであったのかという禅の公案です。

もちろん、解答を得るのは至難でしよう。

しかしこの問いを発した釈宗演老師は、それ以前の問いを自分の中で問い詰めていたがゆえにこそ、漱石に投げかけることができたのです。

この問いに答えはないのかもしれません。

あるいは問いかけた時に答えは既に、その中に内包されていたのかもしれないのです。

数学の例でいえば、フェルマーの定理などは解くまでに300年かかりました。

解けたと信じたイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズは、その解答の誤りを自らみつけ、再び屋根裏に数年こもって、やっと真の証明をしたのです。

つまり解答を得るためには、問題を理解しないとできません。

問題を理解するためには、その問題の本質に分け入る必要があります。

それは問題そのものを作り出す能力と紙一重なのです。

まさに啐啄同時と呼ぶにふさわしい行為なのではないでしょうか。

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あなたもこの小論文に対して、600字で書いてみましょう。

やってみればわかりますが、文章をまちめるのは難しいです。

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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