可能性のある社会
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は自立することの意味を考えながら、小論文の問題を考えてみます。
課題文は中学校3年の国語科教科書に所収されています。
けっして難しい文章というワケではありません。
誰もが十分に納得できる内容です。
無理に二項対立に持ち込む必要はないでしょう。
そのまま真正面から正対して考えていけばいいのです。
しかしこの種の問題は、正面切って反論できないだけに、かえって難しいともいえます。
どこがポイントなのか。
キーワードは何であるのか。
それを最初に見極めなければなりません。
現代文の問題や小論文の場合、最も大切なのは抽象論の部分です。
そこにほぼ主要なテーマがあります。
課題文を読むときは、抽象的な文章の部分に着目しましょう。
具体例は、より理解を進めるための道具です。
それ自体には強い力はありません。
筆者は何を言おうとしているのか。
それに対して、自分はどの角度から踏み込めばいいのか。
それにつきます。
課題文を読んだらメモしましょう。
全体の文の流れをチャート化するのです。
どこへ結論を持っていくのか。
そこまできちんとできれば、失敗することは少なくなります。
短時間でそれをやりきることが国語力を意味するのです。
課題文の1部を掲載します。
じっくりと読んでみてください。
課題文
「自分とは何か」という問いは、哲学者や思想家などによって、昔から繰り返されてきました。
しかし、今は、この「自分とは何か」を、哲学者や思想家だけでなく、十代の若者から中高年まで、世代を超えて、誰もが問わずにいられない時代であると思います。
その理由として、今の社会が、これまでの時代に比べ、個人により大きな自由が保障される社会であるからだということができるでしょう。
自分の意志で自分の人生を選び取っていくことを理想とする社会。
何にでもなれる可能性のある社会。
昔の封建制のもとでのように、個人の自由が厳しく制限されていた社会よりも、ずっと居心地のよい社会だといえそうです。
しかし、ここには自由があるからこそのしんどさがついて回ります。
何にでもなれる社会。
これを裏返していえば、その人の存在価値は、その人が人生において何を成し遂げたか、どんな価値を生み出したかで測られるようになる、ということでもあります。
「何をしてきたか」「何ができるか」で人の価値を測る社会。
そこでは、人は絶えず「あなたには何ができますか」「あなたにしかできないことは何ですか」と他から問われます。
と同時に、「私には他の人にはないどんな能力や才能があるのだろう」と自分自身にも問わなければならないことになります。
「あなたの代わりはいくらでもいる」「ここにいるのは別にあなたでなくていい」と言われることがないように、自分が代わりのきかない存在であることを自分で証明しなければならないのです。(中略)
そのような問いに直面したとき、私たちは、その苦しい思いから、今のこの私をこのまま認めてほしいという、いわば無条件の肯定を求めるようになります。(中略)
「あなたはあなたのままでいい」と言ってくれる他者がいつも横にいてくれないと不安になるというように、自分の存在の意味や理由を、常に他人に与えてほしいと願う、そんな受け身の存在になってしまうからです。
自由の苦しさ
人間の持っている弱さについて実にわかりやすく論じています。
「自分とは何か」という問いは、哲学者や思想家などによって昔から繰り返されてきました。
誰でもがこうした問題に直面したことがあるでしょう。
何にでもなれる自由な社会というのが問題の根源なのです。
自由であることの苦しさはそれを実感した人にしかわかりません。
結局、存在価値を決めるものは何を成し遂げたかで測る以外にはないのかもしれません。
社会の中では数えきれない人達が、互いの暮らしと行動を支え合って生きています。
そこに「自立」のテーマが関わってくるのです。
筆者は人づき合いの困難さを免除されるということは、人を受身で無力な存在にすると考えています。
人生には克服しなくてはならない苦労があるということです。
苦労によって、人と支え合うことが必要になるというのが論の展開の基本です。
実際、何をキーワードにすればいいのでしょうか。
「自分とは何か」という問いの答えを、どう展開するのかというのがこの小論文の難しさです。
つまり「誰かの代わりに」何かをするということは,自分が責任をもつ意識で取り組む必要が生じてくるということです。
この場合、自分の経験をある程度書き込むのが、最も評価されやすい方法の1つです。
ただし長文はダメです。
制限字数が800字だったら、200字が限度でしょうね。
筆者のいう「自立」を支え合う用意ができていることと理解するのがポイントでしょう。
いつでも誰かの代わりに自分が行動できるという心の準備を論じるのです。
支え合うことの意味
筆者の文章の後半はまさにそのことについて言及しています。
その部分を追記します。
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これに対して私は「人生には超えてはならない、克服してはならない苦労がある」と説いた一人の神学者の言葉を思い出します。
苦労を苦労と思わなくなる、のではありません。
苦労を苦労としてそのまま引き受けることの中にこそ、人として生きることの意味が埋もれていると考えるのです。
苦労はしばしば、独りで背負いきれるほど小さなものではありません。
人と支え合うこと、人と応じ合うことがどうしても必要になります。
冒頭にあげた「自分とは何か」という自分が存在することの意味への問いについても、自分の中ばかりを見ていてはその答えを探し出すことはできません。
その答えは他の人たちとの関わりの中でこそ、具体的に浮かび上がってくるものだからです。
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筆者の結論をどう自分の文章に生かしていくのか。
ここが最大の難問ですね。
自分だけを問い詰めるということではなく、他者との関係性の中で発見することの意味を重視するという論点を先にどう伸ばすのかがポイントです。
それでも個人の意思を進めて考えを煮詰めるべきだという考えももちろんあるでしょう。
それも否定はできません。
しかし他者の存在を意識せずに、自分の殻の中に閉じこもることの怖さは、多くの登校拒否や引きこもりなどの中にもみられる現象です。
今日、そうしたケースがなぜ増えてしまったのか。
その背景に他者との関係を構築できない人々の生きづらさをみるという論点も可能です。
自分の体験を重視してまとめる方法については、指摘したとおりです。
ただし冗漫な記述にならないようにしなくてはいけません。
結論をどこへ導けばいいのか。
基本は他者との関係の構築のために、その困難さから目を背けてはならないということにつきると考えられます。
しかしその難しさについても言及すること。
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この問題は一見すると書きやすいようですが、解答のバリエーションはさまざまです。
生き方がそのまま反映しやすいテーマだといえるでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。