障子・ふすま・床の間
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は日本の建築が持っている空間の意味を考えてみます。
出典は哲学者、桑子敏雄『感性の哲学』です。
日本の建築をみると、西洋のそれとは根本的に違うということがよくわかります。
西洋の建築物は基本的に石でできています。
そのなかにどのように光を取り込むのかというのが、ポイントなのです。
石と光の思想などと呼ばれることもありますね。
1つ1つの部屋が完全に独立しています。
個人主義という言葉を持ち出すまでもなく、個人の在り方を決める1つの方法だったのでしょう。
親子といえども、別々の部屋で寝ます。
個人は家族であることの前に、厳然と確立していたのです。
それに比べると日本の建築はどうでしょうか。
基本は木と紙でできています。
非常に燃えやすい素材です。
火災にあうたびに建て直すのが普通です。
『方丈記』の中にも火災のシーンがたくさん出てきますね。
それだけ、自然災害に弱かったことがよくわかります。
筆者は日本建築について、かなり詳しくまとめています。
特徴的なアイテムとしてあげられているのが、障子、ふすま、床の間です。
まさに日本建築を連想させますね。
どれも平安時代にはまだありませんでした。
床の間の前身は閼伽棚と呼ばれ、外にあったのです。
それが書院造りが普及するとともに、家の中に入っていったのです。
部屋を遮るものは、基本的に几帳でした。
課題文を引用します。
少し読んでみましょう。
課題文
障子とふすまによって仕切られ、床の間をもった伝統的な日本建築の空間が各家庭から失われたのは、戦後高度経済成長の時代である。
それまで家の中を分けていた障子やふすまは壁に取って代わられ、ドアが出入り口に作られた。
障子とふすまの空間は、西洋的なプライバシーの思想からいえば、落ち着くことのできない空間のように思えた。
だが、考えてみれば、障子とふすまの空間では、そのなかのプライベートな出来事は聞かないことにし、見ないことにするという高度な抑制が要求されていたのである。
障子とふすまとは、他者と自分との距離の測り方を教えてくれる高度な文化的装置であった。
また床の間には、軸がかけられ、花が活けられていた。
それはどの個人住宅も備えていた私設美術館でもあった。
芸術と自然の愛好がこの小さな、直接的な役には立たない空間によって演出されていた。
わたしの考えでは、床の間こそ、日本文化が世界に誇る最大の発明品である。
戦後の住宅政策は、個の自立を助けるという理由で、部屋を壁という遮蔽物によって囲いこんだ。
そうすることによって、プライバシーを確保した。
ところが、壁のなかで育ったこどもたちは、他者との距離の測り方を学ぶことができなくなった。
床の間はテレビの置き場所になり、アパートやマンションの建築からは、いつのまにか忘れ去られた。
床の間に活けられた花が象徴する自然と文化の融合もひとの心から消え去った。
時を同じくして「なんだか落ちつく」空間の機能もまた失われたように思われる。
どこから書くか
問題はこの課題文を読んで考えたことを800字で記せというものです。
あなたならどこから書き出しますか。
よく言われることですが、日本人の考え方は文化と自然との融合につきます。
庭をみればそのことがすぐにわかるでしょう。
借景などという表現もあります。
自分の理想とする文化の形を、自然とのバランスの中で作り出していくのが、日本人の理想なのです。
花は枯れるから美しいと考えます。
同じ形になることを望みません。
西洋の庭園には、同じ形の花が幾何学模様に構成されているものが多くあります。
彼らは自然を人間の力でかえることに躊躇しません。
それだけに噴水なども大変多いのです。
日本人はそこへいくと、水が下から上へ向かって噴き出すことを好みません。
自然の力に反するからです。
日本の庭には滝が多いのです。
課題文のポイントはいくつかあります。
障子とふすまの空間には暗黙の了解があったという点です。
プライベートな出来事は聞かない、見ないという高度な抑制が図られていたという点です。
なぜこのように複雑な考えを日本人は好んだのか。
考えてみると、実に難しいテーマですね。
平安時代に活躍した歌人に藤原定家がいます。
彼は小倉百人一首の選者でもありました。
定家の思想は、西行法師との出会いの中で形成されたものだといわれています。
課題文の前半に少しそのことが書いてありました。
短く掲載します。
身体性の問題
西行は、その思想を和歌によって次のように詠っている。
山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは
どんなに頭の中で思い描いても、山深く住むことがなくては、そしてそこに住んで心を澄ますことがなければ、ほんとうの「あはれ」は分からない。
というのがこの歌の意味だ。
日本の伝統文化の中で「住まうこと」が持っている意味、「住まうこと」に含まれる身体のあり方の重要性を端的に表現している。
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この文章の内容が理解できますか。
どれほど、そこに暮らすということをイメージしてみても、実際に住んでみることで、はじめて身体の中に沁みこむことがあるという意味です。
音が聞こえても聞こえない。
見えても見えない。
そのはかない構図の中で抑制する感覚を日本人は好んだのです。
谷崎潤一郎が『陰翳礼賛』の中で述べた境地に似ています。
翳があるから光が強く見える。
そこに美があるという考え方です。
全てをドアで仕切った現代の生活から、何かが抜け落ちてしまったとすれば、それこそが抑制することの身体性であったかもしれません。
自分のいる空間を意志で制御するなどというのは、夢物語に近いでしょう。
全く無意味だという考えがあっても不思議ではありません。
しかし床の間の持つ「なんとなく落ち着く」という感覚は、否定できないのではないでしょうか。
それがなんであるのか。
あなたの感性で考えてみてください。
筆者と同じだなどと追随する必要はありません。
ナンセンスな哲学だと言いきってしまってもかまわないのです。
日本(東洋)と西洋という対比の小論文は実によく出題されます。
両者はどこが違うのか。
自然観の違いから解きほぐしていくのも1つの方法でしょう。
庭、建築物、衣服、言葉(敬語)、宗教など、あらゆる角度から書くこともできます。
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多くの本を読み、考えを深めてください。
今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。