制服の思想
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は自由であることの息苦しさというテーマで考えてみます。
制服というものがどういう意味を持っているのかということについての文章です。
2時間で1000字。
国立大学によくあるパターンですね。
課題文もかなり長いです。
出典は数土直紀『自由という服従』です。
全文は載せられないので一部だけを紹介します。
たとえば選択の自由が制限されている一つの例として、中学校・高等学校の制服を考えてみたいと思います。
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今でこそ私立の中学校・高校を中心に学生服もいろいろとバラエティに富んでいますが、私が中学生・高校生だったころはさほどバリエーションがあったわけではありません。
今思い返すと私の母校に限らず学生服はどれもパッとしないものでした。
ただそういったことは別に、当時の社会では、学生服が私たちの自由を抑圧する、管理教育の象徴として語られていたように思います。
実際に高校へは指定の制服しか着て行くことができなかったわけですから、そこに選択の自由がないことはきわめて明白でした。
そこでは個人の趣味に関係なく、特定の服装のみを強制されるという、息苦しさが存在したわけです。
(中略)
私が中学生だったとき担任の教師が学生服をどう思うかと、クラス全員に質問したことがありました。
その時ほとんどが制服があることについて肯定的な意見を持っていました。
また近くの高校では私服での登校が認められていたにもかかわらず、生徒のほとんどが学校から指定された制服を着て登校していたのです。
もちろんこれらは限られた自由にしか過ぎないので一般化はできませんが、着ていく服に悩まなくてもいいからとか、冠婚葬祭の時に便利だからとか、理由はさまざまですが、学生服を肯定的にとらえる感覚は確かにあったように思います。
制服の歴史
1879年、学習院で学生服が制定されたのが、最初だそうです。
日本における学生服の歴史はほぼ140年以上に及ぶことになります。
明治12年頃は、まだ多くの人々が和装だった時代です。
そこへ洋服型にした軍服のデザインを取り入れました。
もっぱら男子学生向けだったのです。
女子向けの制服は袴だったようです。
男女別学が当たり前の時代です。
高等女学校から着るようになったようです。
袴は足が露出しないという点が評価されたのでしょう。
1920年代になるとセーラー服が登場しました。
多くの女子学生がこぞってセーラー服をきました。
文字通り海軍の兵隊が着用する軍服にヒントを得たものです。
いずれにしても社会的な通念を形にしたものといえるでしょう。
女性にとって足を見せるなどということははしたないことでした。
そこから袴を着用することになったのだと思われます。
いずれにしても社会が最も学生にふさわしいものとして、選んだのです。
それが今日まで続いていると考えるのが自然でしょう。
ぼく自身の教員経験からいうと、セーラー服がやがてブレザーに変化し、女子はスラックスも選択肢に入ったというところでしょうか。
自由服に近い学校も経験しました。
課題文後半
もう少し課題文を続けて読んでみます。
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こうして考えてみると、「自由である」ことの意味はそう単純なものではなさそうです。
確かに、特定の選択肢を強制されるのではなく、さまざまな選択肢の中から自分の判断で選択できることの方が、自分にとって、より満足のいく結果を実現してくれるように思います。
そういった意味では、誰にとっても、より自由である状態の方が望ましく思われます。
(中略)
しかし「自由である」ことがこのようなものだとすれば、私たちは「自由である」ことによって、いやおうなく自分というものを他者に評価されてしまうと言えるかもしれません。
たとえば、制服を着ている時であれば、服装によってその人の個性を判断しようなどという人はいないでしょう。
ところが、私服であればそうする人が出てきても不思議ではありません。(中略)
もちろん全ての他者が私の一挙手一投足に注目し、私という人間を品定めしているわけではないでしょう。
あるいは仮にできるとしても本当はどうでもいいと思っているようなことにまでいちいち自分で判断しなければいけない時、私たちはそこに息苦しさを感じることはないのでしょうか。
このように考えてみると、「自由である」ことは私たちにとって常に解放を意味するものではない可能性があります。
ときには「自由である」ことによって自由でなかった時とは異質の息苦しさを感じることがあり得るのです。
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どうでしょうか。
意味が理解できましたか。
問いは筆者のいう「自由であることの息苦しさ」について意見を書けというものです。
どこから考えていけばいいのか。
自分の経験を前面に出して論じることも可能でしょう。
その時に最も大切なのは、何をキーワードにするのかということです。
この文章の内容だったら何ですか。
制服に賛成か反対かというレベルでは議論になりません。
筆者は何をポイントにしていますか。
そこをまずおさえてください。
他者の存在
現代の日本で暮らしている限り、たいていのことは許容されます。
本当に制服がイヤならば、私服の学校はかなりあります。
あるいはこの制服が着たいというのであれば、志望校に組み入れることも可能です。
一般にリベラルな伝統をもった学校は、私服のところが多いようです。
しかし制服についての賛否がここでは必ずしも高く評価されるワケではありません。
キーワードは「自由」です。
その自由を脅かすものは「他者の眼」「他者の存在」なのです。
自由に行動できるはずだったのにもかかわらず周囲に付和雷同してしまう。
つい「服従」的な行動をとってしまう。
その背景にあるのは「自分の中にしか存在しない他者という幻影」なのです。
そのことをどこまで認識できているのか。
それが自由の問題とリンクした時、突然息苦しさを感じさせるのです。
「自由であるがゆえに服従してしまう」という構造があるということを論破していかなければならないでしょう。
どうすればいいのか。
ここが1番大切なポイントになります。
全ての人間が自分と同じ価値観を持っているなどということはあり得ません。
当然そこに食い違いがあります。
他者の眼ばかりを気にしていたら、自分の好む行動は何もできません。
覚悟が必要な所以です。
他者との違いを覚悟をもって引き受けていく。
その度量の大きさがに何よりも大切でしょう。
そこにスポットライトを当てられれば、それほどにひどい答案にはならないはずです。
他者に否定されるのを怖がっているだけでは、光のあたる地平に出ることはできません。
自由とは本来苦しいものなのです。
それがあたりまえだというレベルを獲得すること。
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そこにこそ、解決の糸口があるのではないのでしょうか。
制服の問題はあくまでもそのための断片にすぎないと考えてください。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。