四面楚歌
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『史記』項羽本紀の中から、「四面楚歌」を扱います。
この言葉はよく知られていますね。
誰でも1度は使ったことがあるでしょう。
敵に囲まれて孤立し助けがなかったり、周囲の者が反対者ばかりである時などに使います。
元々は中国の歴史に由来する表現なのです。
司馬遼太郎の著書の中でよく読まれている小説に『項羽と劉邦』があります。
面白い本ですね。
読み始めると終わりません。
登場人物は2人です。
項羽と劉邦には多くの逸話や伝説が残っています。
もともと項羽の祖父・項燕は中国南方の大国、楚で大将軍を務めていました。
ところが秦の始皇帝の中国統一の戦さにおいて、項燕は戦死してしまうのです。
項羽が生まれたのは紀元前232年です。
転機は前210年の始皇帝死去に始まりました。
その後、秦は混迷の度合いを深めていきます。
天下は動乱の時代になりました。
項羽は、叔父の項梁と一緒に8千の兵を率いて秦への反旗を翻したのです。
ついに秦の軍を破り咸陽に入城する時がきました。
退路を断って戦うといったような用兵の技を彼は体得していたのです。
項羽の軍は連戦連勝でした。
しかしただ1人、項羽が甘くみていた人物がいました。
それが後の大敵、劉邦です。
鴻門の会
劉邦は地方の役人でした。
その彼がどうして項羽と戦えるまでになったのか。
当然、運もよかったのでしょう。
一時は項羽に殺されかかったこともあります。
項羽が秦の咸陽へ入城しようとした時、何とすでに別働隊の劉邦がこの地に入っていました。
当然、先を越されてないがしろにされたと項羽は激怒したのです。
劉邦を攻めて殺そうとしました。
しかしここで、項羽の伯父・項伯が両者を取り成すため酒宴を開きます。
参謀の范増はこの場で劉邦を暗殺しろと項羽を促しましたが、彼は劉邦を甘くみていました。
項羽は結局劉邦を逃がしてしまいます。
その後、項羽は楚の王として即位し、劉邦を漢王として当時は田舎であった蜀の地に追いやってしまいます。
項羽は、反乱軍の盟主であった懐王と対立し彼を殺してしまうのです。
この政変の後、項羽に不満のあった諸侯たちが反発し始めました。
その結果、それらの反発勢力を上手くまとめた劉邦の陣営が強大化していったのです。
これが「楚漢戦争」の始まりでした。
項羽は戦さの名手です。
独特の勝負勘を持っています。
劉邦軍50万に対し3万の軍勢で勝ったこともあったのです。
残念だったのは参謀の范増が去ったことです。
勝機が見えても、それを失うようになった項羽を見限ったのです。
鴻門の会での范増の忠告を聞いていれば、このような結果にはならなかったのかもしれません。
この会談での様子は記事にしてあります。
興味がありましたら下にリンクを貼っておきますので、ご一読ください。
歴史に「もし」はありません。
やがて人々が項羽の前から去っていきます。
いよいよ秦の末期、楚の項羽は、四面を漢の劉邦の軍に取り囲まれます。
夜、楚の歌が聞こえてきました。
項羽は祖国が漢に下ったのだと思いこみ、驚き、嘆きのあまり敗走してしまったのです。
なぜ負けたと思ったのか
自分の国の歌が聞こえてきたのに、なぜ項羽は負けたと思ったのか。
楚の民衆が寝返り、漢が楚を手に入れたという意味だと勘違いしたのです。
味方の歌が聞こえたのだから、普通なら援軍が来たと考えてもいいところです。
しかし実際に楚の国の歌を歌っていたのは、漢軍兵士だったのです。
大勢の敵に囲まれた楚軍の兵士には故郷の歌がしみいって聞こえました。
短いので書き下し文を紹介します。
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書き下し文
項王の軍垓下に壁す。
兵少なく食尽く。
漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。
夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰はく、
「漢皆已に楚を得たるか。
是れ何ぞ楚人の多きや」と。
項王則ち夜起ちて帳中に飲す。
美人有り、名は虞(ぐ)。
常に幸せられて従ふ。
駿馬あり、名は騅(すい)。
常に之に騎す。
是に於いて項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰はく、
力山を抜き気世を蓋(おほ)ふ
時利あらず騅逝かず
騅の逝かざる奈何すべき
虞や虞や若を奈何せんと。
歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和す。
項王泣数行下る。
左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫(な)し。
現代語訳
項王の軍は、垓下の城壁の中に立てこもりました。
兵の数は少なく、食料も尽きてしまいました。
漢の軍勢とそれに味方する諸侯の兵士は、城壁を幾重にも包囲しました。
ある夜に、漢の軍勢が四方で皆、楚の歌を歌うのを聞いて、項王は大変驚いて言いました。
「漢はすでに楚を手中におさめたのだろうか。
漢軍の中になんと楚の人間が多いことか。」と。
項王はそこで、夜に起き上がって本陣の中で宴を開きました。
項王の元には美人がいて、名前を虞と言いました。
いつも寵愛されて、付き従っていました。
項王の元には駿馬がいて、名前を騅と言いました。
項王はつねにこれに乗っていたのです。
そこで項王は悲しげに歌い、激しく心をたかぶらせて、自ら詩を作って歌いました。
私の力は山を引き抜き、気力は天下を覆うほどであった。
しかし時勢の利はもう我々にはなく、騅は進もうともしない。
進もうとしないのをどうすることができようか、いやできない。
虞よ虞よ、お前をどうすればよいのか、いやどうしようもない。
歌うこと数回、虞美人はこの歌に合わせて歌いました。
項王は幾筋かの涙を流しました。
項王の側近の者たちは皆泣き、顔をあげて項王を正視することができませんでした。
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歴史は非情なものですね。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。