高校3年の教材
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師のすい喬です。
今回は社会学者・大澤真幸の評論をとりあげます。
これは高校3年の現代文で取り上げる教材です。
かなり難しい部類に入ると思います。
なぜか。
この評論の背景には社会学のバイブルともいわれているある本が関係しているからです。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著書がそれです。
隋分とすごいタイトルですね。
聞いたことがありますか。
アメリカでなぜ資本主義が発達したのか。
その理由の最大のものはプロテスタントの人達の禁欲にあるという論理がメインです。
財産を増やすことと禁欲は全く正反対のように見えます。
むしろお金を儲けて何が悪いという論理が前面に出てもおかしくはありません。
しかしそうではないのです。
労働に励み、財産を増やしていくという暮らしは、厳格なクリスチャンの暮らしにその軸足を持っています。
けっして浪費をせず、禁欲的な暮らしを続けることによって、倫理的な正しさを得たのです。
資本主義が発達することと、矛盾なく彼らは生きることができました。
後ろ暗いところが何もなかったのです。
それを支えたのがプロテスタンティズムの精神そのものでした。
新世界に上陸した彼らは物質的な欲望や世俗的な成功だけを夢見たのではなく、神のいる正しい国を作ろうとしました。
この考えが、大澤真幸の評論の骨格をなしています。
何が書かれているのか
「サッカーにおける資本主義の精神」という文章にはどんなことが書かれているのでしょうか。
高校時代に習いましたか。
ぼくは残念ながら、この教材を扱ったことがありません。
しかしじっくりと読んでみると、思わず納得させられてしまうところもかなりありました。
それはサッカーというスポーツの成立に関わっています。
発祥はイギリスです。
最初はお祭りのイベントと呼べるようなものでした。
村の区域全体で、どちらかがゴールを決めるまで時間無制限で行われたのです。
千人規模で実施されたそうです。
ゴールは市の門や水車小屋でした。
祭りが盛り上がるのはもちろん、ゴールにボールが運び入れられた瞬間です。
しかしその楽しさを長引かせるためには、得点されるまでの時間が長ければ長いほどいいのです。
そのために考えられたルールがオフサイドでした。
ゴールの瞬間的な興奮はそれまでの道のりが長く苦しければ、より強いものになります。
相手のゴール近くでパスをもらうという方法を許してしまうと、当然「終わり」も間近になってしまうのです。
それを阻止するための方法がオフサイドでした。
守備範囲のプレーヤーの背後でボールを待ち、攻撃に転ずるようなプレーは禁じられています。
禁じ手です。
オフサイドとはサイドを離れることを意味します。
サイドとはそれぞれのチームのことをさします。
オフサイド
このルールを持つスポーツはサッカーだけではありません。
ラグビー、ホッケー、アイスホッケーなどです。
全てイギリスで生まれたスポーツばかりなのです。
ではアメリカ生まれのスポーツはどうなのか。
その代表がアメリカンフットボール、バスケットボールです。
相手のゴール下にいて、パスされたボールを入れれば得点になります。
オフサイドという発想はありません。
サッカーでは禁じられているプレーがバスケットなどでは最も華麗な攻撃になるのです。
この対比は何なんでしょう。
考えれば考えるほど、不思議ですね。
オフサイドルールがないということがバスケットの最大の魅力なのです。
アメリカではサッカーの人気はそれほどに高くありません。
なんといってもバスケットと野球でしょう。
なぜこのようなルールができたのか。
今までにも何度もオフサイドの廃止については議論されてきました。
しかし結果として今も残っています。
つまりサッカーにおいてはオフサイドがないと盛り上がらないということがわかっているからです。
オフサイドルールは1845年、イギリスの名門ラグビー校で成立しました。
しかしそれ以前から、望ましくない振る舞いだとする感覚が支配的だったといいます。
さすがに1点だけとれば終わってしまうというお祭り的な要素を取り除いたとしてもです。
禁欲的にゴールに向かってひたすら戦うということの方が祝祭的だということなのでしょうか。
じっくりと反復を繰り返しつつ、前に進むという考え方がイギリス資本主義の発達方法にあっていたのかもしれません。
90分でわずかに2~3点しかとれないのがサッカーです。
バスケットの熱狂
それに比べると、バスケットは実に目まぐるしく得点が変化します。
最近は3ポイントシュートに力点が置かれ、3桁くらいまで得点が伸びます。
いつ終わるのか、どちらが勝つのか。
最後の最後まで目を離せません。
それだけ興奮度の激しいスポーツだということが言えます。
資本主義になぞらえていえば、終わりがなくなり、資本の回転が永遠に続くのです。
本当に終わってしまうことがあるとすれば、それこそが恐慌の瞬間でしょう。
現代の社会には終わりがないのかもしれません。
一瞬で勝ち負けが変わってしまうなどということは、バスケットをみている限りにおいてはごくあたりまえです。
それと同じことは野球のホームランにもいえます。
最終回の最後のバッターが逆転満塁サヨナラホームランを打つというシーンを、私たちは何度も興奮して味わってきました。
まさに資本の論理そのものです。
そうした意味で、サッカーの禁欲的なスポーツ観はまさに古典的な段階の資本主義を象徴しています。
アメリカ人がサッカーよりもバスケットや野球に熱狂するには、それだけの理由があるのです。
得点という歓喜または失点という落胆がドラマを生みます。
厳密に決められた時間の枠内で、何度も何度も繰り返されるバスケットボールこそが、いわば現代の資本主義そのものなのです。
どちらがいいか悪いかの問題ではありません。
マックスウェーバーの社会学をスポーツというフィルターを通してみると、現代の様相がよくわかります。
難しい内容ではありますが、じっくりと噛み砕いてみてください。
あなたはバスケット、サッカーのどちらに魅力を感じますか。
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それぞれのスポーツの裏側にある秘密を少しだけ覗いてみました。
理解していただけたでしょうか。
今回も最後までおつきあいいただきありがとうございました。