【医療系小論文・北大】いのちと死の文化はどこまで衰弱しているのか

小論文

医学の世界の標準語化

みなさん、こんにちは。

小論文添削歴20年の元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は医療系小論文の過去問をチェックします。

2007年度北海道大学医学部で出題された問題です。

15年ほど以前の課題ですが、今も色あせていません。

というより、ここに取り上げられたテーマはより深刻になっている気がします。

出典は徳永進『死の文化を豊かに』(筑摩書房)です。

現役の医師によって書かれたものです。

何度も読み返すたびに考えさせられるいい問題だと思います。

小論文を書く時、文章にあまり深く入りすぎてしまうことは危険です。

しかしそれだけの質をもっている文を課題文に取り上げたのはさすがだと感心しないワケにはいきません。

ポイントは医療現場で使われている言葉から急速に生きたいのちが減少しているという現実です。

いわゆる近代語、抽象語ばかりの表現が増えすぎたというのです。

医学の世界の標準語化といってもいいでしょう。

極度に抽象化された教科書的表現を「1の言葉」と呼ぶことにします。

「2の言葉」は生活の言葉で主に身体から出て、現場で使われる生の表現です。

動植物や自然や暮らしの近くにある言葉です。

1の言葉には「脳死」「クローン」「臓器移植」「介護保険」「安楽死」「インフォームドコンセント」「QOL」などいわゆる論文向きの用語が並びます。

それに対して「2の言葉」には「空」「星」「風」「汗」「寝る」「歩く」などのごく基本的な言葉が続きます。

現在の医療現場には「1の言葉」だけが氾濫し、患者の生な痛みが見えにくくなっているというのが課題文の主旨です。

そのことをどう考えたらいいのかというのが基本的な論点なのです。

死の文化の衰弱

患者とじかに心で接するという体験を持たないまま、現場にたっている医療関係者が増えました。

その現実の中で「死」の文化そのものが衰弱しつつあるのかもしれません。

高齢化社会が続く中、死は間近にあるはずなのに、一向に見えてこなくなりました。

尊厳死や自己決定権などという言葉ばかりが表面をなぞっていくものの、その実態が見えにくくなっているのです。

ほとんどのケースでは臨終の場が自宅から病院にかわってしまいました。

死者を送る儀式は今や完全に業者のものです。

遺族はあらかじめ用意されたパッケージの中に組み込まれ、儀式そのものが完全に様式化されてしまったのです。

メディアにおいても死はみごとにカバーされ、見えにくくなっています。

殺人現場はブルーシートに覆われ、外から内部を覗き見ることはできません。

現在のコロナ禍においても毎日の死者数が頻繁に報告されています。

しかしその全体像は何もみえません。

単なる数字として認識されているに過ぎないのです。

全てが「1の言葉」で覆われていく実態が日々繰り返されます。

このプログにおいても、医療系の問題を扱いながら、どこまで実態に迫っているのかと疑問を持ち続けてきました。

インフォームドコンセントという言葉は確かにあります。

しかしどのような態度を貫いたら、本当に患者と医療者が心を通わせられるのか。

互いに理解をし、同意して治療段階へ進めるのか。

たった1つの問題を扱うだけで、きれいごとではないのがよくわかります。

脚本家平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社)にはそうした話が出てきます。

あるホスピスで余命半年と宣告された夫を介護している奥さんの話です。

解熱剤をいくら飲んでも熱が下がらないので、看護師に問いただします。

その度に丁寧に説明するものの、やはり結果が出ない。

何度も質問され、クレーマーではないかと看護師仲間で話題になっていた時のことです。

奥さんは医師にもくってかかったそうです。

その医師は説明もせずに「奥さん、辛いねえ」と呟いたとか。

その瞬間に奥さんはわっと泣き崩れたのだといいます。

翌日から、彼女がその質問をすることはなくなったということです。

何をどう説明するのかというのは、相手の心の問題とも密接な関係を持っているという事実が、これでよくわかるのではないでしょうか。

尊厳死

課題文の中には尊厳死を願う患者が出てきます。

まったく食事もとれず日々衰弱していく中で、唯一孫娘にあうことだけを楽しみに生きている肺ガンの老人が取り上げられています。

その患者が遠くから駆けつけた孫娘に口をもぐもぐさせて何か言いました。

「勉強しょうるか」と訊いたのです。

それだけ喋るのがやっとでした。

そこに医師は自分が使っている硬直化した言葉とは違う、血の通った「2の言葉」の意義を感じたという話です。

この例話を元に、現在の医学の状況を考えてみようというのが、この問題の趣旨です。

2つの問題が提出されています。

問1は「1の言葉」と「2の言葉」の大きな違いは言葉そのものにいのちがあるのかどうかということです。

ここでいう「いのち」とはどういう意味かを500字以内で書きなさいという内容です。

問2は日本の死の文化がやせ細ってきているという表現に対して、どう思いますか。

あなたは文化が本当にやせ細っていると思いますか。

自分自身の考えを500字以内でまとめなさいというものです。

いのちというキーワード

ポイントはもちろん、「いのち」という表現の捉え方です。

課題文では何を「いのち」と呼んだのか。

「1の言葉」は理知的であり、頭脳から発せられたものです。

それに対して「2の言葉」はこころの中から相手を本当に思って発したものです。

人間の存在はつねに抽象化されるとは限りません。

そこには現実に血の通った肉体があるのです。

痛みも苦しみも同時に感じているいのちそのものです。

当然相手の人間との間に「愛情」が深く通い合っています。

そうしたものを全て無視して、純粋な生命体の器官としてみることも可能でしょう。

現代はまさにその傾向が強いと言わざるを得ません。

しかし目の前には人との関係性の中でもがき苦しんでいる人間がいることを忘れてはならないのです。

もちろん、理屈の上では理解しているつもりなのでしょう。

それが医療現場に長くいるうちに、次第に弱まっていくことの恐怖があります。

全く感じなくなるという現実も同時に横たわっているのです。

死の文化がやせ細っているとするなら、それは医療者の想像力が弱くなっていることの証明なのかもしれません。

生の意味は死の内側に含まれています。

よりよい生を全うするために、人は死を甘くみてはならないのです。

それを単なるセレモニーにパッケージ化することも、あわせて考え続けなければなりません。

人間をモノにしてはいけない。

この大切なことを課題文は感じさせます。

15年以前に書かれた文章ですが、ちっとも色褪せていません。

むしろ濃くなっているというのが実感です。

医療の現場に立つ意志のある人には是非、考えてもらいたいテーマです。

「メメントモリ」という表現はよく使われるものの1つです。

ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味です。

もう1度このテーマをじっくりと考察してみてください。

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今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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