心地のよい文章





入試問題を読んでいると、かたい評論の中に混じってとんでもなく瑞々しいエッセイや随想などにふれることがあります。

そうした文章からは身体の中に水が流れていくような心地よさを感じます。

大庭みな子の「創作」もそうしたものの一つです。

作家は何もないところから何かを創り出すわけではない。
自分の力で創り出すというよりは、思わず知らず、えたいの知れない力に押されてそうなってしまう時、その作品は比較的まともなものになる。
べつの言い方をすれば、創作とは何かを創り出すというよりは、そこにもともと埋まっているものを掘り出す作業なのだ。

この一節は漱石の『夢十夜』を想わせます。

小説の中で、漱石は運慶の話を持ち出し、木の中に埋まった仁王像を掘り出す話をしています。

まさにこれと同じテーマなのです。

この人間社会で、言いたいことを言えずに、口ごもって生きている人々が、何かの時にふと洩らしてしまう言葉は無数の水滴になり、太陽の光が当たると虹の橋になるのだ。
小説に書いてもらいたくてする人の話や書かれまいとして用心している人の話は、あまり面白くないのが普通である。
そういう話には吹く風の音がない。
また見上げても決して虹はかかっていない。

いかにも小説家の目が書かせた文章です。

言いたいことを言えずに口ごもっている人の中にある真実こそが、小説の世界なのでしょう。
小説とはうまい表現だとしみじみ思います。

大河小説というのも確かにあります。

しかしもっと細やかな日常生活の断片の中にしか真実はないように感じます。

漱石の代表作『門』の最後にまた春が来ますねという妻の言葉に対して、すぐにまた冬がくるよと答 える夫の世界に慄きのようなものを感じたのは、隋分と以前のことです。