フランシス子へ 吉本隆明 講談社 2013年3月





フランシス子というのは、筆者が飼っていた猫の名前です。16年と4ヶ月は長命だったのでしょうか。
平凡といえば、平凡きわまりない猫だったと彼は書いています。しかし今まで出会ったことがないくらい、しっくりといっていた猫なのだそうです。
つまり難しくいえば関係性ということなのかもしれません。おとなしいというより、鈍感で黙りこくっていて、冴えたところが微塵もない、本当にぼんやりとした猫だったそうです。相性がよかったということなのでしょう。
この後、彼は自分の性格がこの猫と合わせ鏡のように同一性を持っていたことを告白しています。
うつしそのものです。もう一人の自分といってもいい。思考のテンポの遅さがあっていたということなのでしょう。自分がいつも「遅れて」しまう人間だと彼は述懐しています。いくら頑張っても早くはできない。察しが悪いのかと自分を責める時も多々あったそうです。
だからこそ、感情の起伏にあった猫との出会いが、大きな意味を持っていたのです。
しかし最愛の猫もついに死んでしまいました。
その後9ヶ月ほどして、飼い主であった吉本隆明自身も亡くなります。

この本には親鸞のこともかなり書き込んであります。
どこまでも他力本願であることを信じようとしたものの、弱点だらけで、堕落しきった自分を知っていた親鸞の素顔に迫ろうとしています。
いないもんはいないというフランシス子に対する大切な思い出は、そっぽを向いてどこかにふいに行ってしまう時の様子が好きだったということのようです。
ちょうど武田泰淳みたいだったと呟いているところがまた愉快でした。亡くなる直前の聞き書きを構成した本です。
それだけに生の息づかいがよく出ています。
本当にホトトギスはいるんでしょうかという問いも唐突ではありますが、含蓄に富むものでした。
吉本隆明の評価はこれからの時代の流れとどうリンクしていくのか。それにも大いに関心があります。
一編の散文詩を読んでいるような味わいがありました。