表裏井上ひさし協奏曲 西館好子 牧野出版 2011年9月





 作家井上ひさしとその妻、好子さんとのあまりにも壮絶な日常を描いた作品です。
井上ひさしとの出会いから、彼が売れっ子作家になるまで。そして劇団の運営に関わり、やがて離婚。最後は作家の死までが実に当事者でなければ書けない筆致で、綴られています。
一言で言えば火宅といえるのではないでしょうか。
人はその出自に負うというのが今の感想です。
家族の団欒というものを知らない井上が、下町育ちの全く自分とは毛色の違う女性に興味を持ったとしてもそれは少しも不思議ではありません。その彼が野望を抱きつつ、NHKの番組のほんのわずかな仕事からのし上がって、やがて看板番組「ひょっこりひょうたん島」の作家になるまで、それほどの時間はかかりませんでした。そこから『手鎖心中』での直木賞受賞までも、わずか数年のことです。
まさに夫婦の蜜月時代と呼べるでしょう。
しかし好子さんの親と同居し、市川に不夜城のような家を建てた頃から、歯車がどんどん狂っていきます。夥しい量の仕事は当然こなせません。それを断り調整するのも彼女の役割でした。
やがて熊倉一雄率いるテアトルエコーとの芝居にも亀裂が生じ、彼は自分でこまつ座を旗揚げします。そこの責任者に好子さんがなったあたりから、破綻は見えていました。
彼女にはプロデューサーとしての能力がありました。それがしかし井上ひさしには逆につらかったのです。自分一人で一族を全て面倒みるという図式にはまらなくなりました。
家の中のささいなことが、彼の神経をいらだたせます。江戸っ子である義父や義母の感覚が時に、憎悪をかきたてました。それは食べるものであれ、ものの置き方、感じ方の全てに渡っていくのです。娘のためによかれと思ってした同居が、ますます悪い方向へなだれをうって進んでいきます。
そこへ井上マスという彼の母親がやってくることで、親子関係がますます複雑な展開をみせるのです。彼女は一言でいえば、息子を溺愛する以外に愛情の交感を示す方法を知らない人でした。
やがてこまつ座の芝居への執筆が遅れだし、赤字がふくらんでいきます。井上ひさしには貸借対照表はみえませんでした。やがて劇団の中にももめごとが続き、関係者へのお詫びがかさなります。そんな時に劇団内の男性との不倫があからさまになりました。
これは劇団というものの持つ一つの縮図なのかもしれません。長い旅公演の間に男女関係が複雑になるケースはごくあたりまえのことだと聞きます。芝居の上の関係が、舞台を降りた後も続くのです。
ここから話は急展開し、井上による暴力がエスカレートします。外での表情を崩せない作家は内向していくのです。殺されると思ったことも何度かあるそうです。結局、離婚。記者会見をアレンジしてくれた、つかこうへいへの感謝の気持ちは真実でしょう。
一方、マスコミは作家井上ひさしをあくまでも守ろうとします。離婚にいたる少し前に、大出版社数社の専務クラスが何人かで彼女を料亭に招き、説得するところなどは圧巻です。作家は子供みたいなものだ。それを守っていくのが奥さんなんですよ。彼が死んだ後はゆっくりできるんですから。そこまで囁かれたのです。
この作品が大手の出版社から出ることはありません。それも運命でしょう。
彼の二人の娘は父親に会うこともかなわなかったそうです。こまつ座の運営に失敗したからというのがその理由です。絶縁を書き記した文書も壮絶です。
最後にこまつ座を継いだ三女だけが、唯一見舞いを許されました。
これが本当の意味で家族というものを持てなかった一人の男の生き様です。
巻末にある長女、井上都さんの文章には切々たる彼女の思いが綴られています。
こまつ座の舞台を何度も見ました。彼の芝居や小説が好きです。それだけにこの作品を読むと、作家というものの内側に潜むデーモンの黒々とした姿に怯えさえ感じるのです。