空気と世間 鴻上尚史 講談社 2009年7月





 タイトルがユニークです。昨今の空気重視路線と、少し以前の世間至上主義とを比べた点も大変独創的だと思いました。
なぜこれほどに日本人は空気を読めと声高に叫ぶのでしょうか。あるいは世間という表現とどこが違うのでしょうか。その差異を明らかにしようとした試みがこの本なのです。
空気は序列から発生すると最初に鴻上は述べています。お笑い芸人が10人いれば、その一番トップにいる人が、どのような笑いを望んでいるのかをいち早く知り、その通りに笑いを作り上げていくということが求められるのです。
それは会社でもあらゆる組織でも同じです。その集団のトップにいる人間の顔色を読んで行動しなければなりません。落とし所の見えない会議や、集団では人は完全に盲目状態になります。
それでは世間という表現とどう違うのでしょうか。
筆者は世間がカジュアル化し、簡単に出現したものが空気だと断言しています。そこには完全な意味での個人は存在しません。
ここがキリスト教を内側に入れ込んだ西洋の人々と根本的に違うところだと鴻上は言います。
日本では犯罪を犯した人の親が自殺したり、兄弟姉妹が破談になったりすることがよくあります。また逮捕された瞬間から世間は彼や彼女を犯罪者扱いします。裁判というシステムを待たないところは、実に不思議な光景です。
ところが西洋では教会がこの世間をつぷしていきました。そうでないと、勝手におみくじやお祓いなどのような民間伝承で世間を作り上げてしまうからです。
欧米人は神との関係でしか、ものごとを考えないと筆者は述べています。一番年上の人がどのような意見を持っていたとしても、神の前ではみな切り離された一個人でしかありません。そこにはみんなで一緒にという世間はないのです。
しかしその世間も日本では急速に崩れ始めています。経済的グローバル化の波は終身雇用と年功序列を奪ってしまいました。ここにこそ、世間があったのです。となると何を信じていいのかわからなくなった人々は急速に世間のルールを飛び越えようとし始めました。
ノーと言えない日本人達は、ゆるやかな共同体の中に突き進もうとしています。おりしもインターネット時代です。どのように日本人が変化していくのか、そのことが気がかりでなりません。
空気を読めという合言葉が今以上に強くなるのでしょうか。それとも衰退していくのでしょうか。
キリスト教に関する部分の記述は大変新鮮でした。面白い対比があちこちに出てきます。一読をお勧めします。