内儀さんだけはしくじるな 古今亭八朝編 文藝春秋 2008年7月





 噺家の世界は実に面白いものです。失敗談や滑稽談にも事欠きません。しかしこれほど上下関係の厳しい社会もまたないのです。内弟子制度というものがあり、師匠の家に寄宿しながら、家事全般を全て行わなければならないという修行時代もあります。
現在では住宅事情などもあり、通いで稽古をつけてもらうことの方が多いようですが、ほんの少し前までは、師匠の家のことは全て弟子にまかせられていたのです。
そこで一番大切なのは芸の修行以上に、師匠のお内儀さんとの関係でした。とにかくこの女性をしくじってしまうと、二度と噺家に戻ることはできなかったのです。
この本は数人の名人と言われた人たちの家で修行をした落語家達の対談をまとめたものです。
五代目柳家小さん、六代目三遊亭圓生、八代目桂文楽。いずれも錚々たる時代の寵児でした。
なかでも一番面白かったのは柳家小さんの家の話です。現在落語協会会長におさまっている鈴々舎馬風がはじめて家を訪ねた頃の話は実に愉快です。
それまで決まった引き出しにいれておいた家賃が、何ヶ月もにわたって消えてしまうという事件があったのもこの頃のことです。
馬風が一番に疑われました。なんとなくお内儀さんの態度もよそよそしくなります。前の家の奥さんにあんたがやったんなら言ってごらんと言われ、身に覚えのない彼は自分ではありませんと素直に話します。
やがて先輩が犯人だったと言うことが他の事件からわかり、それからはお内儀さんも、師匠もお酒を勧めてくれたり、お小遣いをくれたりと妙に愛想がよくなったなどということもあったようです。
いずれにしても怒鳴られているうちは大丈夫というのが弟子達に共通の認識であったとか。言い訳をしてはいけないとか、師匠の浮気を絶対にお内儀さんに知られないように努力したとか、涙ぐましい話ばかりです。
しかしこうした日常の中で、師匠の芸談に触れ、高座に憧れ、やがて一人前の噺家に成長していくのです。一銭のお金もとらず、ただで食事と寝る場所を提供するという、誠に不思議な社会です。
そうして、弟子をとりながら、師匠もまた成長していくのです。他の世界にはない、実にユニークな教育方法をとっていると感心します。
人の気をそらさないという芸人の根性と姿勢ををここで骨の髄までたたきこまれるのです。こうした名人たちと本当に近くで接し、その芸に憧れた人々が、羨ましくてなりませんでした。