或る「小倉日記」伝 松本清張 新潮社 1965年6月





 松本清張会心の作です。彼はこの作品で第28回芥川賞を受賞しました。この作品に登場する薄幸の人物は実在したということです。
身体の具合が悪いことで、社会に受けいれられず、しかしどこかで世の中を見返し、さらに認められたいとする願望が、主人公、田上耕作を鴎外研究に向かわせます。
口が満足にきけず歩行も困難な息子のために、母は渾身の力をこめて援助します。息子だけしか、もう生きがいはありませんでした。
社会に認められず、それでも社会につながりたいとする人間はどのように生きていけばいいのか、この短編集にはそうした満たされない人々の怨嗟の声が満ちています。
どの作品も読後感は暗いです。
学閥も閨閥も何ももたない人間はどのようにしたら、世俗的成功をおさめうるのか。学芸や学問の世界の非情さもここには書き込まれています。
松本清張自身、尋常小学校しか出ていなかったために、社会に出てから辛酸をなめざるを得ませんでした。それだけに世俗的に成功していくための苦しみをいやというほど味わうこの短編の登場人物たちに対して、筆者の熱い共感を感じます。
功なり名をとげた研究者が学界から転落していく話や、下積みの庶民の本当に苦しい生活も垣間見えます。
作家にとって、最初から恵まれた人たちは、まったく別世界の住人でした。彼らになんとか一矢を報いたい。それが彼の創造の源泉であったのです。
なかでも「父系の指」という小説の最後は劇的です。こういう感情は、ある環境の中にいた人にしか理解できないものでしょう。それだけに強烈なものがあります。
松本清張の真価ここにありというのが、まぎれもない読後感といえるのではないでしょうか。いい本です。