私の墨東綺譚 安岡章太郎 新潮社 1999年6月 





 いうまでもなく『墨東綺譚』は永井荷風の名作です。この本は何度読んでもその時々に違った味わいをもっています。
荷風という人間の複雑な内面を知るためにも恰好の本といえるでしょう。登場人物のお雪についてはどこかに書いた記憶があります。実際の話のようでいて、これは巧妙に描かれた荷風の内面世界だということも、最近ではごく当たり前のこととして、受けとめられているようです。
さて安岡章太郎が、この作品に寄せる思いも並々ではないようです。敗戦の年、南満州の僻地で結核の治療を受けていた筆者は突然内地への還送を命じられ、本来なら東京へもどるはずが、大阪の病院へ運ばれました。
その時、偶然図書室で手にした本が、この『墨東綺譚』だったのです。陸軍病院のベッドに横たわりながら、それまで愛読していたものの、全く手にはいらなくなったこの本を読んでいる自分が信じられなかったと書いています。
横光利一の『旅愁』とほぼ同じ時期に書かれたこの作品は、圧倒的な支持を得ました。暗い路地の奥にある人生の真実に、人々は何を見たのでしょうか。フランス文学をあれだけやった荷風がたどり着いた境地に対する興味もつきません。
この著書は、安岡という人間を通して描かれたもう一つの『墨東綺譚』のように感じられました。
挿入してある口絵も、初版本からとったものです。趣があり、こうした時代がはるかに遠いことを実感させてくれます。