テレビの嘘を見破る 今野勉 新潮社 2004年10月





 ドキュメンタリーとは何かというのは、大変に難しいテーマです。映像にはどこまで作り手の意思が反映されるものなのでしょうか。またその意図を伝えるために何が許されているのでしょうか。
筆者は長い間、テレビの制作現場にいて、さまざまな場面を見てきました。そして考え続けました。テレビは、あるいは映像は時に嘘をつくということです。
いくつもの例が出されています。たとえば、象が突然川のほとりから落ちてしまいます。すると次の瞬間に親の象が、子供を川からひょいと鼻にひっかけて助けあげます。これはある有名な損保のCMに使われた映像です。思わず微笑んでしまうような、いい光景です。
しかし事実は全く違うそうです。
偶然、川に落ちた小象を撮影することに成功したスタッフは、全く別の飼育された象を使って川から救い上げる様子を数時間もかけて、撮ったそうです。そのためにわざわざ、タイへ行きました。親子でもなんでもない象だったそうです。
しかしこの映像を見た人たちは、あっという間にこの風景にだまされてしまいました。
この程度のことならよくあることです。しかしこれが実際にもっとイデオロギーにからんだり、実写として信じられているものであるとしたら、どうでしょう。
再現映像はドキュメンタリー足りうるのでしょうか。最近はむやみと再現ドラマがつくられます。あまりにも安易な手法ではないでしょうか。
この本にはたくさんの例が挙げられています。そのどれもが、思わずうならされる内容です。最近話題になったNHKによるムスタン王国のドキュメンタリー報告も詳細になされています。
後から撮った映像をはさみこんだり、実際その時に起こらなかった事実を挿入したりして、秘境のイメージを増幅するために、さまざまな脚色がほどこされています。
しかしこれを見た視聴者は全くそのことに気づきませんでした。実際はスタッフと現地の人とのほんの僅かなトラブルから、リークされたというのが事実に近いのです。それにすぐ飛びついたのは活字媒体である新聞記者でした。
ここにも映像と活字の問題が横たわります。
さて映像にどこまで脚色が許されるのか。これは大変に本質的で難しい問題です。カメラを回すことによって、対象が変化することもあるからです。本質を伝えるために、何をしてもいいという倫理はもはや通用しないでしょう。それだけに、今日、映像に携わる人間は、以前とは全く違った方法論を意識しなくてはならないところにきています。
全体を通じて、たくさんの例があげられ、大変参考になりました。
映像を志向する人間にとっては他人事ではありません。倫理と映像効果とのせめぎあいが長く続くものと思われます。